宇多源氏

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朽木稙綱 朽木稙昌

 元和4年(1618年)9月11日、3代将軍・徳川家光に仕え始める。元和9年(1623年)に民部少輔に叙任された。寛永8年(1631年)5月21日には小姓組番頭に任命され、翌々年の寛永10年(1633年)の7月24日には、書院番頭となった。寛永12年(1635年)11月20日、再び小姓組番頭となり、若年寄を兼任した。寛永13年(1636年)に加増を受けて1万石の大名となり近江朽木藩を創設した。
 その後、寛永16年(1639年)9月4日に1万石の加増を受け、正保4年(1647年)12月14日に更に5千石の加増を受けて下野鹿沼藩主となる。慶安2年(1649年)2月19日に若年寄を免ぜられ、3万石をもって常陸土浦藩に転封。承応元年(1652年)11月1日、奏者番に任ぜられた。 

 寛永20年(1643年)5月19日、土浦藩の初代藩主・朽木稙綱の長男として生まれる。万治3年(1660年)に父が死去したため、翌年に家督を継いで土浦藩の第2代藩主となる。このとき、弟の朽木則綱に3000石を分与している。
 寛文7年(1667年)に奏者番に任じられる。寛文9年(1669年)9月、5000石加増の3万2000石で丹波福知山藩に加増移封された。しかし、移封のための出費、天災などにより藩財政が悪化し、元禄4年(1691年)には5ヶ年にわたる家臣の知行の半知を行なっている。また、足軽の大量解雇や藩札発行の停止などを行なっている。文化の発展にも尽力した。
 宝永5年(1708年)6月25日、家督を長男の稙元に譲って隠居する。正徳4年(1714年)2月23日に死去。享年72。 

朽木稙治 朽木玄綱

 丹波福知山藩の第4代藩主。福知山藩朽木家5代。
 寛文5年(1665年)11月7日、初代藩主・朽木稙昌の次男として生まれる。兄の稙元がいたため相続権は無く、元禄7年(1694年)に第5代将軍・徳川綱吉の中奥小姓に任じられ、後に小姓組番頭に栄進した。宝永5年(1708年)、兄から3000石を与えられている。
 享保2年(1717年)に隠居する。しかし、享保11年(1726年)に甥で第3代藩主の朽木稙綱(稙元の子)が早世したため、本家の家督を継いで第4代藩主となる。荻生徂徠と親交があったため、藩政では文治の発展に尽力した。しかし、すでに老齢の上、実子も無かったため、稙治は弟の朽木昌充や朽木迪綱を養子に迎えた。しかし弟たちが相次いで死去したため、迪綱の子・朽木綱貞を養子に迎えたが、綱貞が病弱な上に不和になったため廃嫡し、美濃岩村藩から朽木玄綱を養子として迎え、享保13年(1728年)11月23日に家督を譲って隠居した。
 その後は大久保下屋敷に住んで剃髪し、英山と号した。寛保元年(1741年)7月28日に死去。享年77。 

 丹波福知山藩の第5代藩主。宝永6年(1709年)9月11日、美濃岩村藩の第3代藩主・松平乗紀の5男として生まれる。享保12年(1727年)、福知山藩の第4代藩主・朽木稙治の養子となる。享保13年(1728年)11月23日、稙治が隠居したため、家督を継いで第5代藩主となった。
 藩政では享保17年(1732年)、享保の大飢饉が原因で、享保19年(1734年)に享保の強訴と呼ばれる騒動が起こり、藩内は混乱した。このため、米価高騰により、自らの生活を最低にして出費を抑えている。また、明智光秀御霊法会を許可している(御霊祭りの開始)。さらに後継者問題でも、稙治の養子だった朽木綱貞を擁立する一派と自らの子を擁立したい玄綱が対立し、もともと大給松平家から養子として入った玄綱には後ろ盾が無く、綱貞を養子に迎えている。このように混乱続きの藩政で、玄綱の功績には文武の発展がある。宝暦8年(1758年)には寺社奉行に任じられた。明和7年(1770年)8月30日に死去。享年62。跡を養子の綱貞が継いだ。 

朽木綱貞 朽木昌綱

 正徳3年(1713年)9月16日、初代藩主・朽木稙昌6男の朽木迪綱の長男として生まれる。はじめ第4代藩主・朽木稙治の養子となっていたが、病弱を理由に廃嫡されて第5代藩主には縁戚に当たる朽木玄綱が迎えられた。ところが、これに不満を持った家臣団の一部が綱貞を擁立して家督争いにまで発展したため、玄綱は実子の舖綱を退けて綱貞を養子に迎え、明和7年(1770年)に玄綱が死去すると、綱貞が第6代藩主として後を継ぐこととなった。
 この頃の福知山藩はこのように家督争いや財政難が起こって混乱続きだった。しかし、血筋だけで擁立されたような綱貞には文化的才能はあったが、政治的才能には疎く、藩政改革も行わなかったといわれる。安永9年(1780年)8月22日、家督を養子の朽木舖綱に譲って隠居した。天明8年(1788年)5月31日に死去。享年76。 

 寛延3年(1750年)1月27日、第6代藩主・朽木綱貞の長男として生まれる。天明7年(1787年)2月22日、第7代藩主の朽木舖綱が隠居したため、養子として家督を継いで第8代藩主となる。
 古銭収集が趣味で、特にこのことから「古銭家の王者」と称された。著作も多く、『蘭学階梯』の序文や『泰西輿地図説』、『古今泉貨鑑』、『新撰銭譜撰』12巻、『良貨分量考』など、多くの貴重な著作を残した。また、蘭学研究に熱心であり、前野良沢に弟子入りし、大槻玄沢ら蘭学者やオランダ商館長(カピタン)と交遊を持った。また、義兄である松平不昧の茶道の弟子にもなるなど、文人として名を馳せた。しかし、政治家としては二流だったといわれる。
 寛政12年(1800年)4月9日、家督を養子の朽木倫綱に譲って隠居する。享和2年(1802年)4月17日に死去。享年53。 

朽木綱張 朽木為綱

 丹波福知山藩の第12代藩主。文化13年(1816年)8月6日、近江膳所藩主・本多康禎の次男として生まれる。嫡子だった朽木綱紀が早世したため、第10代藩主・朽木綱方の次女と結婚した上で婿養子として迎えられる。天保7年(1836年)に第11代藩主・朽木綱条の死去により、家督を継いで第12代藩主となる。弘化3年(1846年)6月18日に奏者番に任じられる。
 藩財政難を再建するため、原井惣左衛門,市川儀右衛門らを登用したが、彼らは改革と称して百姓から重税を取り立てる悪政を布いた。このため、万延元年(1860年)8月に大規模な百姓一揆が起こって、両名は責任者として切腹となり、さらに奏者番も辞職に追い込まれた。
 幕末期は佐幕派として摂津の海防警備、禁門の変、第2次長州征伐に参加したが、慶応3年(1867年)2月25日、中風が原因で福知山で死去した。享年52。後を長男の為綱が継いだ。 

 丹波福知山藩の第13代(最後)の藩主。弘化2年(1845年)11月5日、第12代藩主・朽木綱張の長男として生まれる。父の養子だった朽木紘綱が早世したため嫡子となり、慶応2年(1867年)に父が死去したため、家督を継いで第13代藩主となる。慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いでは旧江戸幕府軍に協力しようとしたが、幕府軍が敗退したため、新政府の西園寺公望率いる軍勢に降伏した。しかしそのため、上層部の切腹による謝罪や北越出兵、丹波・丹後などの代官地・天領などの接収を余儀なくされている。
 明治2年(1869年)6月、版籍奉還により福知山藩知事に任じられる。明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県で免官となり、9月に東京に移った。明治5年(1872年)に養子の朽木綱鑑に家督を譲って隠居し、福知山に戻って士族の救済に務めた。しかし、養子の綱鑑と対立して養子縁組を破棄し、再び家督を継いだ。その後は富教会を設立して士族の救済を本格的に務めたという。明治16年(1883年)4月26日に死去。享年39。
 実子に陸軍少将で子爵、貴族院議員を務め、火薬の研究者としても有名な朽木綱貞がいる。