清和源氏

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三沢為基 三沢宗直
 三沢為基が長府藩を出奔して、仙台藩伊達家に仕えた。為基の息子・三沢清長は娘・初子が藩主伊達綱宗の側室(伊達綱村生母・綱宗には正室がいなかった)となったことから重臣の待遇を受けた。伊達綱村,伊達村和,伊達宗贇は、伊達綱宗と三沢初子との間に生まれた子である。三沢氏の血は亀田藩岩城家,宇和島藩伊達家,熊本藩細川家などにも流れており、出雲三沢氏の女系子孫は奥州でも繁栄した。

 寛永20年(1643年)、浪人・三沢清長の子として生まれる。慶安4年(1651年)、父・清長と死別する。叔母の紀伊が、仙台藩第2代藩主・伊達忠宗の正室・振姫の老女であった縁で、明暦元年(1656年)1月に姉の初子が、第3代藩主・伊達綱宗の側室となる。万治2年(1659年)3月8日に初子が亀千代(第4代藩主・綱村)を出産し、同年4月に姉の縁で綱宗に家臣として召し出された。
 万治3年(1660年)、藩主綱宗が隠居し、亀千代(綱村)が藩主となる。寛文6年(1666年)、舅の河野道円が死罪となり、妻子共に仙台に差し下される。寛文7年(1667年)、加増を受けて禄高300石となる。延宝3年(1675年)11月、藩主の外戚として一門に列し、延宝4年(1676年)10月、桃生郡深谷小野邑に1000石の知行と、「宗」の諱字、雀紋を賜与された。
 延宝9年(1681年)7月、1000石の加増を受け、胆沢郡前沢邑に移る。元禄7年(1694年)10月には知行3000石となる。
 元禄6年(1693年)、専制政治を行う藩主・綱村に対する一門の不満から、諫言書を提出した一門7家8名に名を連ねる。
 元禄10年(1697年)3月18日、死去。享年54。家督は嫡男の村為が相続した。

三沢村延

 明和2年(1765年)、三沢家第4代当主・三沢村保の子として生まれる。村保は岩谷堂伊達村望の4男で、三沢村清の婿養子となり、藩主伊達宗村より偏諱を受けていた。
 寛政3年(1791年)、父・村保の死去により家督相続し、胆沢郡前沢邑主となる。家の慣例により、仙台藩主の伊達斉村から偏諱を受けて村延と名乗る。
 寛政9年(1797年)、仙台藩の領内で大一揆が発生し、一揆勢が前沢にも迫ったため、一門登米伊達宗充からの応援を得てこれを取り鎮めた。
 文化8年(1811年)5月7日死去。享年47。家督は嫡男の三沢宗為が相続した。