清和源氏

G453:小笠原政康  源 義清 ― 小笠原長清 ― 小笠原長忠 ― 小笠原政康 ― 小笠原貞信 G460:小笠原貞信

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小笠原貞信 小笠原信辰

 寛永8年(1631年)8月24日、旗本で交代寄合・高木貞勝(美濃衆)の長男として美濃石津郡多羅で生まれる。母が小笠原信之の娘であったため、下総関宿藩の初代藩主・小笠原政信(信之の長男)の婿養子となる。寛永17年(1640年)7月に政信が死去したため、家督を継いで関宿藩主となるが、10歳の幼少では重要な関宿は守れないとして9月に美濃高須藩に移封された。元禄4年(1691年)に越前勝山藩に移封される。
 相次ぐ移封と、元禄5年(1692年)から翌年までの大坂加番などによる出費で財政難を招いたため、年貢増徴による財政改革を行なった。しかし、これは百姓の反発を招き、元禄10年(1697年)には百姓の逃散と江戸越訴により、百姓の年貢減免要求を受け入れざるを得なくなった。
 元禄15年(1702年)7月18日、家督を孫で養子の信辰に譲って隠居し、一玄と号した。隠居後は小笠原氏の本拠であった武蔵本庄で過ごしたが、なおも大殿として藩政の実権は握っていた。このため、藩政が混乱し、家督抗争や主導権争いも起こっている。正徳4年(1714年)6月17日に死去。享年84。

 貞享3年(1686年)2月16日、小笠原信秀(小笠原貞信の次男)の長男として江戸で生まれる。元禄15年(1702年)に祖父の貞信が隠居したため、祖父の養子として家督を継いだ。しかし実権は祖父の貞信がなおも握っており、さらに家督をめぐっての内紛も起こるなど、治世当初から混乱が起こった。
 さらに元禄16年(1703年),宝永3年(1706年),正徳元年(1711年),正徳5年(1715年)など連年にわたって大坂加番に任じられた上、江戸屋敷の焼失や公家接待の饗応役、勝山城の築城などの出費が重なって藩財政が苦しくなった。
 享保4年(1719年)には病に倒れて藩政を執ることが困難になったため、享保6年(1721年)4月25日に家督を養子の信成に譲って隠居し、河内入道と号した。その後は白山温泉で療養していたという。享保21年(1736年)2月28日に勝山で死去した。享年51。

小笠原長教 小笠原長守

 宝暦10年(1760年)4月12日、第5代藩主・小笠原信房の長男として生まれる。明和6年(1769年)に世子に指名され、安永5年(1776年)12月には元服して信愛と名乗った。安永9年(1780年)11月16日、父が病気を理由に隠居したため家督を継いだ。
 藩政においては藩内取締法12か条を制定して綱紀を粛正し、藩財政再建のために倹約を行ない、緊縮財政政策を採用した。安永10年(1781年)3月には勝山城下で大火が起こり、それを契機に火消組を編成している。天明3年(1783年)には天明の大飢饉で餓死者を多数出し、遺体を埋めるために掘った穴が足りなくなって困ったという逸話もある。天明6年(1786年)4月には打ちこわしが起こり、寛政2年(1790年)1月には江戸下屋敷が火事で全焼し、寛政3年(1791年)には暴風雨で被害を受け、寛政9年(1797年)には郷盛騒動が起こるなど、藩政は多難だった。
 寛政11年(1799年)3月10日に江戸で死去した。享年40。

 天保5年(1834年)7月25日、第7代藩主・小笠原長貴の6男として生まれる。天保11年(1840年)5月2日、父・長貴の死去により家督を継いだ。嘉永元年(1848年)10月1日、将軍徳川家慶に拝謁し、同年12月16日、従五位下左衛門佐に叙任する。
 当初は長守が幼少のため、林毛川が家老として補佐を務めた。毛川は綱紀粛正,人材育成,産物奨励、天保13年(1842年)からの5ヵ年に及ぶ倹約、生活の簡素化など、積極的な藩政改革に努めた。天保14年(1843年)には藩校・成器堂を創設している。嘉永元年(1848年)には軍備を増強し、専売制を確立するなどして、一時的に藩政改革を成功させた。
 しかし弘化4年(1847年)に幕命を受けて関東方面の河川手伝い普請を務め、安政2年(1855年)にも安政の大地震で藩邸が崩壊するなどして出費が重なり、藩財政は短期間で悪化した。しかもこれらの被害に加えて、改革における領民に対する普請などの負担が大きかった(砲台建設など)ため、領民から毛川の罷免を求める声が上がり、長守は11月22日に毛川を罷免させた。
 その後は親政を行ない、文久3年(1863年)にオランダ式の軍制を採用して軍備を増強し、元治元年(1864年)には大坂加番に任じられた。慶応元年(1865年)には京都守備を務めた。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に協力し、明治2年(1869年)6月の版籍奉還で勝山藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で藩知事を免官された。
 明治6年(1873年)に隠居する。明治24年(1891年)7月24日に死去。享年58。詩,書画に優れた文化人であったといわれる。