清和源氏

G365:畠山義純  源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義国 ― 畠山義純 ― 田中時明 G369:田中時明

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田中時朝 田中正造
 足利氏の一門・畠山氏庶流の田中氏の祖。鎌倉幕府御家人となる。父は足利義純で、母は新田義兼の娘・来王姫であったとされる。『尊卑分脈』によれば、田中時明とも呼ばれたという。時朝と兄の岩松時兼は母親が新田義兼の娘であり、弟の畠山泰国の母親は北条時政の娘であったため、泰国が嫡子として畠山氏を継承し、時兼と時朝は庶子として扱われた。上野国新田郡田中村を拠点として田中氏を名乗った。末裔は足利氏の御一家(一門)として『大舘常興日記』に記されている。

 日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件の解決に奔走し、明治天皇に直訴しようとしたことで有名。下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)出身。足尾銅山鉱毒事件の被害者でもあり、救済を政府に訴えた。日本の公益活動家の嚆矢となった人物。
 父の跡を継いで小中村の名主となり、幕末から村民らと領主である高家六角家に対して政治的要求を行っていたが、このことがもとで明治維新直前の慶応4年(1868年)に投獄された。なお、この時の牢は縦横高さともに1mほどしかない狭いもので、立つことも寝ることもできない過酷な構造だった。翌年に出所。
 1870年(明治3年)、江刺県花輪支庁(現・秋田県鹿角市)の官吏となったが、翌年、上司の木村新八郎殺害の容疑者として逮捕され、投獄されている。これは物的証拠もなく冤罪だったと思われるが、正造の性格や言動から当時の上役たちに反感を持たれていたのが影響したらしい。1874年(明治7年)に釈放された。
 1878年(明治11年)、区会議員として政治活動を再開。1880年(明治13年)、栃木県議会議員。1882年(明治15年)4月、立憲改進党が結党されると、その年の12月に入党している。栃木県令だった三島通庸と議会で対立。自由民権運動のなかで、加波山事件に関係したとして1885年(明治18年)逮捕されるが、三島が異動によって栃木県を去ると年末に釈放された。1886年(明治19年)4月1日開会の第13回臨時県会で議長に当選する。
1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に栃木3区から出馬し初当選。この年、渡良瀬川で大洪水があり、上流にある足尾銅山から流れ出した鉱毒によって稲が立ち枯れる現象が流域各地で確認され、騒ぎとなった。1891年(明治24年)、鉱毒の害を視察し、第2回帝国議会で鉱毒問題に関する質問を行った。
 1897年(明治30年)になると、農民の鉱毒反対運動が激化。東京へ陳情団が押しかけた(「押出し」と呼ばれた)。農商務省と足尾銅山側は予防工事を確約、脱硫装置など実際に着工されるが、効果は薄かった。
 1900年(明治33年)2月13日には、農民らが東京へ陳情に出かけようとしたところ、途中の群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣村で警官隊と衝突。流血の惨事となり、農民多数が逮捕された(川俣事件)。この事件の2日後と4日後、田中は国会で「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」と呼ばれる日本憲政史上に残る大演説を行う。当時の総理大臣・山縣有朋は「質問の意味がわからない」として答弁を拒否した。この年の川俣事件公判の傍聴中、田中があくびをしたところ、態度が悪いとして官吏侮辱罪に問われ、裁判にかけられた。なお、川俣事件は仙台控訴審での差し戻し審で、起訴状に担当検事の署名がないという理由で1902年(明治35年)に公訴不受理という判決が下り、全員が釈放された。
 1901年(明治34年)10月23日、田中は議員を辞職したが、鉱毒被害を訴える活動は止めなかった。12月10日、東京市日比谷において、帝国議会開院式から還幸中の明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴を行った。途中で警備の警官に取り押さえられて直訴そのものには失敗したが、東京市中は大騒ぎになり、新聞の号外も配られ、直訴状の内容は広く知れ渡った。直訴状は、幸徳秋水が書いたものに田中が加筆修正したと伝えられる。田中は即拘束されたが、政府は単に狂人が馬車の前によろめいただけだとして不問にすることとし、即日釈放された。田中は死を覚悟しており、釈放後、妻カツ宛に自分は(12月)10日に死ぬはずだったという意味の遺書を書いている。また直訴直前に迷惑がかからないようにとカツに離縁状を送っているが、カツ本人は離縁されてはいないと主張している。
 1902年(明治35年)、川俣事件公判の際にあくびをした罪で重禁錮40日の判決を受け服役。このとき聖書を読み、影響を受けた。この後の田中の言葉には「悔い改めよ」など、聖書からの引用が多くなる。
 1903年(明治36年)には栃木県下都賀郡谷中村が貯水池になる案が浮上。田中は1904年(明治37年)7月から実質的に谷中村に住むようにしている。同年、栃木県会は秘密会で谷中村買収を決議。貯水池にするための工事が始められた。谷中村は強制廃村となるが、田中はその後も強制破壊当日まで谷中村に住み続けて抵抗した。結局、この土地が正造の終の棲家となる。1908年(明治41年)、政府は谷中村全域を河川地域に指定。1911年(明治44年)4月、旧谷中村村民の北海道常呂郡サロマベツ原野への移住が開始された。
 田中は自分の生命が先行き長くないことを知ると、1913年(大正2年)7月、古参の支援者らへの挨拶回りに出かける。その途上の8月2日、足利郡吾妻村下羽田(現・佐野市下羽田町)の支援者・庭田清四郎宅で倒れ、約1ヵ月後の9月4日に同所で客死した。71歳没。『下野新聞』によれば、死因は胃ガンなど。財産は全て鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときは無一文だったという。雲龍寺で9月6日に密葬が行われ、10月12日に佐野町惣宗寺で本葬が行われた。参列者は一説に30万人ともいわれる。田中の遺骨は栃木・群馬・埼玉県の鉱毒被害地計6箇所に分骨され、墓は6箇所にある。
 そして、田中が明治天皇へ行うとした直訴状は、2014年(平成26年)5月21日に渡良瀬遊水地や田中の出生地である佐野市を訪れた125代天皇・明仁(当時)へと伝えられることとなった。直訴未遂から実に113年後のことであった。