清和源氏

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畠山義純 畠山泰国

 義兼の庶長子であるが、遊女の子であったとも伝えられ、大伯父の新田義重に新田荘で養育されたという。畠山重忠が元久2年(1205年)6月の畠山重忠の乱で北条氏の手により滅ぼされると、義純は重忠の未亡人(北条時政の娘)と婚姻し、重忠の旧領と畠山の名跡を継承した。異説として時政女を所生とする畠山重忠の娘と婚姻したとも考えられている。義純は元々従兄弟の新田義兼の娘・来王姫と結婚しており、子の時兼,時朝らを儲けていたが 、妻子と義絶しての継承であった。
 ただし、義純の生涯については不明な点も多く、来王姫も畠山重忠の乱以前に既に死去していた可能性もある。また、新田氏からも畠山氏(正確には重忠の未亡人。また、異説として時政女を所生とする畠山重忠の娘)からも義純に所領が継承された形跡はなく、岩松時兼,田中時朝,畠山泰国のいずれもが母方から直接所領を継承して各々の家の祖となったもので、義純を岩松氏や源姓畠山氏の祖とするのは正しくないとする指摘もある。さらに岩松氏の所領の中に畠山重忠の旧領由来と思われる武蔵国大里郡の所領が含まれているとの指摘がある。
 ともあれ、これにより秩父平氏の流れを汲む畠山氏は、河内源氏の一系・足利一門として存続することになった。5年後の承元4年(1210年)10月7日、36歳で病没。

 母が北条時政の娘で畠山重忠未亡人という関係で、1度断絶した畠山氏の名跡を継ぐ(そのため、異母兄達は岩松氏・田中氏を名乗る)。なお、母については異説として重忠と時政の娘との間に生まれた女性というものがある。この場合、泰国は重忠の外孫であると同時に時政の曾孫となる。源姓畠山氏の2代当主とされているが、初めて畠山姓を名乗ったのは泰国であるため、実際は初代当主といえる。
 諱の「泰」の字は、従兄弟にあたる北条泰時から偏諱を受けたものである。北条氏の縁者でもあったため、鎌倉幕府から厚遇され、美濃にも所領を持ち、子の義生が分家して美濃畠山氏となった。義生の系統は、後に日向に移り日向畠山氏となる。泰国は建長年間に子の国氏(=時国?)と共に幕府に出仕した記録があり、この頃までの生存は確認できる。泰国の跡は国氏が家督を継承した。

畠山国清 畠山義清

 足利尊氏に従い鎌倉幕府討幕、建武の新政から離反した後の南朝との戦いで和泉、次いで紀伊の守護となる。後に河内の守護にもなり、畿内に勢力を広げた。足利家の内紛から発展した観応の擾乱では尊氏の弟である足利直義に属し、政争に敗れた直義が京都を脱出して吉野の南朝に属すると国清も従うが、後に尊氏方に付き、武蔵野合戦に参戦している。
 延元元年/建武3年(1336年)9月1日、南朝の武将・岸和田治氏と戦い、八木城まで撤退させる。しかし、7日、天王寺から中院右少将と楠木一族の橋本正茂らが治氏の援軍に来ると、治氏は城中から撃って出たため、国清は挟み撃ちされた格好になり、蕎原城まで撤退して籠城、しかしこれも落とされて敗走する。
 正平8年/文和2年(1353年)、尊氏が関東地方の統治のために設置した次男の鎌倉公方・足利基氏を補佐する立場の関東管領となり、伊豆の守護となった。同年、鎌倉府を武蔵入間郡入間川に移し、遠縁である秩父氏ら武蔵平一揆を率い、武蔵守護にもなり権勢を振るった。正平13年/延文3年(1358年)に南朝方の新田義興を謀殺した。
 正平14年/延文4年(1359年)、2代将軍・足利義詮からの援軍要請を受け、関西に攻め上った。しかし、陣中で仁木義長と対立、幕府執事(管領)の細川清氏と協力し、義長を政治から失脚させる。しかし、正平15年/延文5年(1360年)には、今度は清氏が義詮と対立し失脚することになり、政治的に苦しい立場となった。国清は軍勢と共に関東へ無断で帰還したが、清氏の投降で攻勢に出た南朝により京都が一時失陥する事態を招くことになり、これにより国清はますます面目を失うことになった。
 正平16年/康安元年(1361年)11月、かつての直義派の武将達から基氏に対して国清の罷免の嘆願が出ると、国清は失脚し領国の伊豆へ逃れた。国清は伊豆の豪族達を糾合することで基氏に抵抗しようとしたが、伊豆の豪族達の協力は得られず、三津城や金山城を落とされるなど敗戦を繰り返し、最後の牙城として籠城した修禅寺城も落とされ、基氏に降伏した。その後の国清の消息は定かではなく、降伏時に斬殺されたとも流浪の末に大和で窮死したともいう。「津川本畠山系図」は正平17年/貞治元年(1362年)、『畠山家記』は正平19年/貞治3年(1364年)に没したと伝えている。
 国清の失脚・叛乱によって畠山氏は一時没落したが、後に弟の義深が義詮に許されて越前守護に任命され、以降の畠山氏の嫡流は義深の系統に移った。とはいえ河内国の守護に任命されたのは国清が最初であり、河内畠山氏の実質的な祖は国清であるといえる。

 畠山国清の嫡男で、父の没落時に行動を共にしたと思われるが、詳細は不明である。その後、畠山一族が罪を許される中、義清も復権し、3代将軍・足利義満に近侍するようになった。しかし、従兄弟であり幕政を主導する管領職に就いた畠山基国と、本来畠山氏嫡流でありながら、庶流の基国の下に立たねばならない一御家人の自分を較べ、次第に鬱憤が溜まったらしく、応永12年(1405年)6月に至り突然発狂し、異様な風体で北山第に出仕したため、京都から自らの所領のある紀伊国へ追放された。また、義清の子(清貞か)も北山第から京中に追われ、その宿所は闕所とされた。以降の動向は不明。子孫は以後も畠山氏庶流として将軍に近侍し、戦国時代には能登西谷内城に住み、本願寺の縁戚になったという。