清和源氏

G109:源 頼綱  源 経基 ― 源 満仲 ― 源 頼光 ― 源 頼綱 ― 山県国直 G129:山県国直


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山県国道 能世国能

 兄たちが累代の本拠地である摂津国を地盤としたのに対し、国直は美濃国を地盤として同国山県郡に居住したことから美濃源氏山県氏族の祖となった。しかし、そのほかの事跡については詳らかでなく、『尊卑分脈』の記述によれば、安芸国に流罪となったとされるが、官歴や生没年などは不明である。
 都に程近く熟国とされる美濃は、先祖の頼光,頼国が国司に任じられて共に下向しており、父・頼綱は頼国の下向に同行していた。こうした経緯を背景に、叔父の国房(土岐氏族の祖)と共に美濃に進出する足掛かりを得ていたものと考えられる。美濃の地盤は長子の国政が継承し、次男・国基は摂津能勢郡を地盤として能勢氏の祖となった。

 平安時代末期から鎌倉時代初期の武士。官位は従五位下、判官代。号は「能世判官代」。
 父より能勢氏の惣領を継承し京武者として朝廷に出仕する一方、御家人の列にも加わったとされる。『吾妻鏡』建久6年(1195年)3月10日条の東大寺供養に随行した「野瀬判官代」は、確証はないものの、年代や通称などから国能を指すと比定されている。後代、子孫も在京御家人として活動したことが史料上の所見より明らかにされている。

能勢頼定 能勢頼次

 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将で後醍醐天皇に仕える。元弘元年(1331年)の後醍醐天皇笠置山挙兵の折には二階堂貞藤と戦い、これを退ける活躍を見せるも帝の本隊が奇襲により総崩れとなると、やむなく軍勢を撤退した。鎌倉幕府滅亡後の建武の中興の折、勤士の功により摂津国能勢郷目代となるが、足利尊氏が帝に反旗を翻すと各地を転戦。延元3年/暦応元年(1338年)には山城八幡、興国元年/暦応3年(1340年)には後村上天皇の命により脇屋義助を補佐し、共に伊予国へ出兵して細川氏に戦いを挑んだ。緒戦は優勢に進めたものの兵力差が大きすぎるため敗北し、備前国に逃れた。
 備前国では浜野や網浜付近を拠点とし、近隣の豪族を味方に付けて勢力を盛り返しつつあったところ、興国4年/康永2年(1343年)に赤松氏の軍勢が来襲し備前国網浜(網浜の戦い)で1度は撃退したが、2度目の来襲時に裏切者がでて敗退し進退窮まり、摂津国にいる嫡男・頼仲に「多田家は累世未だ武家に仕えたる先例が無い、もし将軍に仕えるなら氏を能勢に改めて仕えよ」と遺言し8月12日に自害した。
 足利尊氏は後にそのことを聞き、頼貞の勤王心に感涙し頼仲に能勢の所領を安堵するとともに備前17郷を与えたという。文献で見る限り、義理人情に厚く、人使いの上手い人物であることが伺える。 

 能勢氏は代々足利将軍家に仕えたが、織田信長の時代に兄2人はいずれも戦死していた。 山崎の戦いで明智光秀に味方するも、敗戦後に逃亡し塩川長満に領地を奪われた。光秀を破った豊臣秀吉に仕えたが、旧領は当然回復されなかったらしく、『能勢町史』によると、九州征伐後の能勢郡は島津義弘が在京賄料として拝領していた。
 秀吉の死後には徳川家康に近づき、慶長4年(1599年)に石田三成が徳川家康を襲撃するという巷説が流れた際は、自身の屋敷が三成の屋敷の隣であったため、その動向を家康に密告し続けた。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは家康に従い、その功で能勢郡3000石を与えられ、また同地に6800石を預けられる。野間神社の再興と地黄城の築城に着手した。
 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では天満口を守備。翌年の夏の陣では多田へ駐屯し、どさくさに紛れ塩川氏を滅ぼした。戦後は2300石の加増を受ける。元和7年(1621年)、家督を嫡男・頼重に譲り隠居。寛永3年1月18日(1626年2月14日)江戸で没した。幕府は遺言によって領地をその子孫に分与した。長男・能勢頼重に3,000石、次男・能勢頼高に1,500石、3男・能勢頼之に1,000石、4男・能勢頼永に846石、5男・能勢頼平300石をそれぞれに与えた。地黄城は頼重が引き継ぎ後の11代目・能勢頼富まで続いた。 

近江局 能勢頼一

 本名は福。初めは余野広安、次いで能勢頼資に嫁いだが、先夫とは離縁し、後夫とは死別したとされる。兄・能勢頼之の妻が、2代将軍・徳川秀忠の乳母・大姥局の娘である岡部局の姪であった縁から、その伝手を頼って江戸城大奥へ入った。
 江戸幕府4代将軍・徳川家綱の時代において、将軍付き御年寄として大奥を取り仕切り権力を振るったとされる。その証拠に、京へ送られる書状に彼女の署名だけがあったり、徳川将軍家から屋敷を贈られたり、没後の弔問に大老が派遣されたといった特別扱いが目立つ。
 寛文10年(1670年)1月27日、67歳で死去。池上本門寺に墓碑が存在する。 

 父・頼雄の没後、元禄3年(1690年)12月に1歳で跡目相続し小普請となった。宝永4年(1707年)11月、小姓組番士、宝永6年(1709年)12月に小納戸、享保12年(1727年)6月、小十人頭を歴任し、同12月、布衣を着することを許された。享保14年(1729年)11月、小姓組組頭に昇進し、享保20年(1735年)10月に目付となった。
 寛保元年(1741年)には、500石を加増されそれまでの蔵米100俵も知行地に改められ、武蔵国埼玉郡,上野国邑楽郡内600石を知行することとなった。延享元年(1744年)6月には町奉行にまで昇進し、同年12月、従五位下肥後守に叙任された。宝暦3年(1753年)3月、西ノ丸旗奉行となった。宝暦4年(1754年)11月、職を辞し寄合となり、宝暦5年(1755年)5月に66歳で没した。