<藤原氏>北家 秀郷流

F979:少弐資能  藤原房前 ― 藤原魚名 ― 藤原秀郷 ― 藤原千常 ― 近藤脩行 ― 武藤頼平 ― 少弐資能 ― 筑紫尚門 F987:筑紫尚門

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筑紫満門 筑紫惟門

 室町・戦国期の筑紫氏の系図は諸説あり(【F979】【G331】参照)、詳細不明な点が多い。
 満門は当初、少弐氏に仕えており、嘉吉元年(1441年)8月24日に少弐教頼から、文明11年(1479年)11月19日には教頼の子・政資から、筑前や肥前・筑後国等にある所領を安堵されている。また、九州探題の渋川氏の勢力を駆逐するのに貢献したが、延徳3年(1491年)に筑後犬塚城を大友政親によって追われた渋川刀祢王丸を保護している。
 大内氏の九州侵攻によって次第に劣勢となった少弐氏が、明応6年(1497年)に政資が自刃したことにより一時滅亡すると、満門は東尚盛らと共に大内義興に降伏し許され、以後は大内方として北九州での筑紫氏の立場を強化した。翌明応7年(1498年)2月24日には大内方として肥前で尚盛と共に、九州千葉氏の千葉胤資の遺子・胤繁と戦い退けている。大永元年(1521年)、宝満岳の上宮を再建している。
 大永4年(1524年)、少弐氏を再興させた少弐資元の家臣であり娘婿・馬場頼周からの寝返りの誘いを拒否し、逆に頼周を大内氏への帰順を促そうとしたため、頼周の怒りを買い、娘や孫への面会を餌に頼周の居城・綾部城に誘い出され、殺害されたとされている。

 初め少弐氏に仕えていたが、主家が衰退したために、大内家の筑前侵攻に呼応して大内氏に仕えていた。大内氏滅亡後、大友氏の影響下に置かれるが、惟門はひそかに毛利氏と手を結び、毛利元就の九州進出に対し、秋月文種と呼応し挙兵した。しかし、これは失敗に終わり、文種は自刃し、惟門は嫡男の広門らと共に山口へ逃走する。後、毛利家の支援のもと、元の所領に帰り咲く。
 永禄2年(1559年)と永禄7年(1564年)に大友軍と筑前侍島で交戦し、二度の戦いにいずれも釣り野伏せのような戦術を使って、1回目は問註所鑑晴,佐藤刑部,星野鑑泰,犬塚尚家,田尻種廉,田尻種増,田尻種任,麦生民部兄弟など、2回目は問註所鑑豊と小河鑑昌ら筑後の国人衆を先後撃ち取り、大友軍を撃退した。しかし、永禄10年(1567年)、高橋鑑種,原田了栄,秋月種実,宗像氏貞らと共に挙兵し、再び大友氏と侍島や山上城で戦うものの、最終的には家督を子の広門に譲って自害した形で、降伏の願いと人質の筑紫栄門を出して、大友軍に屈服した。

 

筑紫広門(上野介) 筑紫広門(主水正)

 筑後国上妻郡の国人領主で、肥前国の勝尾城主。なお、妻は高橋紹運の妻と姉妹関係にある。
 父の筑紫惟門が大友氏に降伏し、まもなく没したため(自害説もある)家督を継ぐ。耳川の戦いの後に反旗を翻すなど大友氏に反抗的であったが、天正14年(1586年)には高橋紹運の次男・高橋統増(立花直次)に娘を嫁がせて縁戚となり、再び大友氏の傘下となった。そのため、同年に起こった岩屋城の戦いの際には大友氏に味方し、島津氏に攻められて領地を奪われた。この際の肥前鷹取城攻防戦では、弟の筑紫晴門(右衛門大夫)は大手口で戦死し、続いて筑前高鳥居城にも子の春門(左衛門丞)は島津方の川上忠堅と壮絶な一騎討ちを演じて相討ちとなり、自身も島津軍の捕虜となって筑後上善寺に幽閉されてしまうが、翌年に豊臣秀吉の九州平定がはじまり、島津軍が撤退すると幽閉先から脱出し、家臣を集めて旧領を奪回。その功を賞されて、筑後国上妻郡に18,000石の所領を与えられた。
 文禄元年(1592年)から始まる文禄・慶長の役にも参陣し、小早川隆景の配下の部隊として奮戦する。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に属して京極高次が守る大津城を攻めた。西軍主力が関ヶ原で敗戦した後、徳川家康によって筑紫氏は改易された。その後は剃髪して夢庵と号し黒田長政や加藤清正を頼り、加藤家改易後は細川氏を頼った。死後、息子の筑紫主水正広門は、大坂の陣の戦功で寛永4年(1627年)に3,000石の所領を与えられ、子孫は3,000石の旗本として存続した。

 「武藤系図」では天正2年(1574年)に勝山出生としている。『寛政重修諸家譜』では筑紫惟門2男、正保3年(1646年)に死去、享年73としている。享年からの逆算で天正2年出生は「武藤系図」と一致しているが、同じく『寛政重修諸家譜』記載の父とされる惟門の没年である永禄10年(1567年)とは矛盾している。惟門の実子ではなく広門(上野介)の養子の可能性が高い。
 慶長3年11月18日(1598年12月16日)に、島津義弘,立花宗茂,宗義智,高橋直次,小早川秀包,寺沢広高らと共に露梁海戦に参戦した。
 慶長4年(1599年)に父の継嗣となり広門と改名、従五位下・主水正に叙任される。しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に味方して大津城の戦いに参戦、西軍敗北により浪人(処士)となり肥後国に住む。慶長19年(1614年)に小倉藩主・細川忠興に就いて以前の罪を謝し、大坂の陣に参戦する。元和元年(1615年)に京都で徳川家康に拝謁した。
 寛永4年(1627年)8月25日に旗本寄合席に列し、知行地として豊後国速見郡に3000石を与えられる。
 葬地は浅草永見寺。永見寺は代々の葬地となる。家督と知行は養子の信門が相続した。