| F979:少弐資能 | 藤原秀郷 ― 藤原千常 ― 近藤脩行 ― 武藤頼平 ― 少弐資能 ― 少弐頼尚 | F980:少弐頼尚 | ● |

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| 少弐頼尚 | 早良直資 |
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1333年(元弘3年)に鎌倉幕府討幕運動である元弘の乱が起こると賛同し、父の貞経に従って九州における北条氏勢力であった博多の鎮西探題北条英時を滅ぼす。鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇の建武の新政が始まり、親政から離反した足利尊氏が九州へ落ち延びてくると、頼尚は尊氏を迎えるために赤間関へ赴き、その最中に宮方に属した菊池武敏,阿蘇惟直に大宰府を攻められ、父の貞経が戦死する。1336年(建武3年)に頼尚は足利勢とともに筑前国多々良浜の戦いで菊池氏らを撃破し、再び京都を目指す尊氏に従い畿内まで従軍する。 |
1350年(貞和6年/観応元年)10月頃の段階で、父・頼尚が大宰少弐から筑後守へ名乗りを変え、大宰少弐の名は嫡子・直資に譲られたとされるが、『園太暦』貞和4年8月11日条には「大宰少貮藤原頼喬 筑後守藤原頼尚」と見えており、この段階で既に頼尚が「大宰少弐」の名乗りを譲ったことが分かる。従ってこの頼喬がのちの直資であり、また改名後の「直」の字は頼尚の娘婿となった足利直冬より受けたものと考えられている。尚、『太平記』巻三十三「菊池合戦事」には「大将大宰筑後守頼尚、子息筑後新少弐忠資」と見えていることから、「忠」は音通による誤記で「直」の字が「ただ」と読んでいたことが窺える。 |
| 少弐冬資 | 少弐頼澄 |
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父・頼尚の娘婿(すなわち冬資らの義兄弟)となり擁立された足利直冬より偏諱の授与を受けて冬資と名乗る。 |
父の頼尚や兄の冬資とは袂を分かち南朝方の武将として活動し、兄が九州探題・今川貞世に謀殺された水島の変後は少弐氏の当主となり、菊池氏らと同盟して貞世ら北朝方の勢力に反抗した。南朝の勢力が衰退すると肥後に亡命した。 |
| 少弐貞頼 | 少弐満貞 |
| 1387年(元中4年/嘉慶元年)、九州探題・今川了俊と一時和睦して筑前守護に返り咲く。しかし、了俊の後任の九州探題・渋川満頼の命に従わず、菊池武朝と同盟して反抗する姿勢を見せたので、1397年(応永4年)に3代将軍・足利義満の命を受けた大内義弘や大友親世らに攻められて一時窮地に追い込まれた。しかし、応永の乱で義弘が敗死、大内氏が一時衰退したのを機に勢力を回復し、豊前守護を大内氏から奪い取っている。1404年(応永11年)に九州探題を圧倒するまでに勢力を回復させたが、同年に病死、子の満貞が継いだ。 |
1404年(応永11年)、父・貞頼の死により家督を継ぐ。家督相続後は九州探題・渋川満頼と戦う。1419年(応永26年)には李氏朝鮮による対馬侵攻(応永の外寇)を迎撃したと幕府へ報告した(実際には対馬に渡っていない)。 |
| 少弐嘉頼 | 少弐教頼 |
| 1433年(永享5年)、父・満貞と兄・資嗣が相次いで戦死し、自身も弟・教頼とともに対馬宗氏の下に亡命を余儀なくされ、その地で元服した。一族の横岳頼房や宗氏が少弐氏再興のため軍事活動をおこない、また、大友持直と協力するなどして嘉頼自身も何度か出兵したが、大内持世のためその度に再興の野望は挫かれた。嘉頼は窮状から倭寇まがいの活動を行っていたとも言われ、のちに朝鮮や宗氏との関係悪化を懸念した持世が、少弐氏の再興を幕府にとりなすまでになった。 |
1433年(永享5年)、父・少弐満貞と兄・資嗣が大内持世との戦いに敗れ戦死すると、教頼は兄・嘉頼と共に対馬国に落ち延びることを余儀なくされ、宗貞盛の庇護下に入る。対馬で元服し家督を継いだ兄・嘉頼は、1440年(永享12年)に6代将軍・足利義教の計らいで大内持世との間で和睦を結び、少弐氏の存続が認められるも、1441年(永享13年)に21歳で早世した。 |
| 少弐政資 | 少弐高経 |
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室町幕府とその機関である九州探題の渋川氏、それを背景とした周防の守護大名大内氏とは長年対立してきた少弐氏であったが、応仁の乱で大内氏が西軍につくと、教頼・政資父子は東軍の細川氏と接近し、幕府への帰参を果たした。1468年(応仁2年)、九州で蜂起した父が大内氏に敗れ戦死したため、政資が家督を継いだ。 |
早くから父に従って各地を転戦する。1489年(延徳元年)には周防大内氏の傀儡である九州探題・渋川刀祢王丸(渋川尹繁)を攻撃して1491年(延徳3年)までに肥前から追放し、その後も大友政親の支援を受けながら東肥前・筑後など北九州に勢力を拡大した。1494年(明応3年)には肥前の大半を支配下に収めるなどして、かつての少弐氏の版図をほぼ取り戻した。 |
| 少弐資元 | 少弐冬尚 |
| 少弐氏第16代当主。1497年(明応6年)、父・政資と兄・高経が幕府からの追討令を得た周防国の大内氏に攻め滅ぼされ非業の死を遂げたのち、横岳資貞ら旧臣たちや豊後大友氏の後押しを受けて、少弐氏を再興する。1530年(享禄3年)、大内義隆の命を受けた筑前守護代の杉興連の侵攻を受けるが、田手畷の戦いにて家臣の龍造寺家兼らの働きによりこれを撃退した。しかしこのため、龍造寺氏の力が台頭することにもなり、少弐氏の力は次第に衰退してゆく。また、資元も度重なる大内氏の侵攻に耐えられなり、家兼の進言を受け義隆と和議を結ぶが、この和議は謀略で、1535年(天文4年)、資元は義隆に領地をすべて取り上げられてしまった。1536年(天文5年)、大宰大弐の官を得た義隆は陶興房に資元を攻撃させ、資元は自害して果てた。子の冬尚は蓮池城の小田資光(政光の祖父)の下に落ち延び、少弐氏の血脈を保った。なお、資元最期の地となった梶峰城は、父・政資が自決をした場所でもある。 |
1535年(天文4年)、父・資元が自害して少弐氏が一時的に滅亡すると、冬尚は龍造寺家兼ら家臣団の助けを受けて1540年(天文9年)に少弐氏の再興を果たした。しかし、1545年(天文14年)、家臣の馬場頼周が家兼を妬んでその一族の大半を暗殺するという事件を起こしてしまう。このため、頼周は1546年(天文15年)に家兼の反攻にあって殺され、冬尚も家兼と対立することとなった。 |
| 少弐政興 | 少弐元盛 |
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1559年(永禄2年)、兄2人が龍造寺隆信により殺されると、馬場鑑周(馬場政員の子で、馬場頼周の孫)に匿われ、大友義鎮と結んで少弐氏の再興を図る。1563年(永禄6年)から馬場鑑周の支援の下、有馬晴純,波多鎮,大村純忠,多久宗利,西郷純尚などの肥前国の諸将と共に、龍造寺氏と戦う。しかし、翌年に龍造寺勢の猛攻を受け肥前中野城に籠るも、馬場鑑周も降伏し、少弐氏再興の希望は潰えた(降伏したのは1565年とも)。隆信は大いに苦戦し犠牲者も少なくなかったという。このことからも政興は武勇に優れていたことがうかがえる。 |
父・資元が自害した時、わずか1歳であったという。少弐氏の一族である横岳資誠に養育されたといわれている。元服の際には亡き父・資元より一字を取って元盛と名乗った。元盛は肥前国川副庄の福満寺に居たのであるが、このとき少弐旧臣の今泉朝覚が朝廷を通して元盛を頭に少弐再興を働きかける。しかし叶わず、代わりに朝廷は、龍造寺隆信へ元盛を安穏に差し置くようにとの綸旨を出した。隆信はこれを了承し、自ら元盛の元へ出向くと、福満寺に滞在することを許した。 |
| 横岳頼房 | 横岳資貞 |
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少弐氏10代当主の筑前・豊前守護少弐貞頼の子として誕生する。頼房は筑前大宰府の横岳に居住して横岳を名乗り、横岳氏の祖となる。 |
資貞は、少弐氏15代当主少弐政資の偏諱を受けている。政資は、大内氏に奪われていた筑前太宰府を一時的に奪還した少弐氏の中興の祖である。しかし、宿敵・大内義興の反撃を受けて、肥前多久で政資・高経親子は戦死した。 |
| 横岳資誠 | 横岳鎮貞 |
| 横岳氏は少弐氏の庶流の一族。少弐貞頼の子頼房を祖とする。 肥前国三根郡郡代をつとめた。資誠は三根西島城を領していた。幼少の頃から少弐資元を助けて、その補佐役に当たっていたという。後に資元の子・少弐冬尚にも仕え、冬尚の娘を娶って重用された。 |
資栄の子。1617年(元和3年)9月10日卒。大友氏の家臣。少弐氏滅亡後、再興を目指して龍造寺隆信と戦う。特に永禄年間以降には、筑紫氏や大友氏を支援を受けて居城・西島城に籠城し何度も龍造寺氏の侵攻を防いだ。1570年(元亀元年)の今山の戦いでは、大友軍に従軍している。後に龍造寺氏に降伏、龍造寺政家に仕え偏諱を受け家実を名乗った。以後、家実は一族の頼続とともに龍造寺軍の西肥前攻めや筑後攻めに従軍している。家実は1585年(天正13年)、祖父・資誠の遺言に従って石塔を対馬国に贈っている。『隆信公幕下着到』では横岳氏は家実と一族の頼続の2名で600町と記載されている。佐賀県三養基郡みやき町西島の光浄寺に墓が現存する。 |