<藤原氏>北家 秀郷流

F951:尾藤公澄  藤原秀郷 ― 藤原千常 ― 佐藤公清 ― 尾藤公澄 ― 伊藤基景 F952:伊藤基景

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伊藤景綱 伊藤忠清

 平忠盛・清盛に仕えた有力家人。古市の伊藤武者と称される。
 祖父の藤原基景が11世紀頃に伊勢守に任官して以降、伊勢国に土着して伊藤を号した。父の基信は員弁郡久米郷の志知村を本拠とし、平正盛の家人となって左衛門尉に任官している。保元の乱・平治の乱では子息らを率いて清盛軍の先陣を勤め、戦功を挙げて従五位下・伊勢守に任じられた。『保元物語』には景綱が伊勢鈴鹿山で山賊を絡め取って副将軍の宣旨を受けたとする武勇が記されている。景綱の子や孫らは平家有力家人として多くの合戦で活躍している。 

 保元の乱で平清盛の軍の先陣を務め、源為朝と戦う。この時、為朝の強弓を前に苦戦を強いられ、弟の忠直(伊藤六)が戦死した。平治の乱の直後には清盛の命で、二条天皇側近の大炊御門経宗,葉室惟方を逮捕している。
 左兵衛尉を経て、嘉応2年(1170年)に右衛門少尉となる。忠清は平氏一門の中でも特に平重盛に近仕しており、重盛の嫡男・維盛の乳父でもあった。その後、何らかの理由で上総国に配流された忠清は、現地の有力在庁官人・上総広常の歓待を受ける。
 忠清は閑院内裏の警備軍を指揮する立場にあり、安元3年(1177年)4月の延暦寺大衆の強訴では防備に当たった。この時に威嚇射撃の矢が神輿に命中し、大衆側に死傷者が出た。この結果、院と延暦寺の抗争は激化し、天台座主・明雲の配流と奪還、後白河法皇による延暦寺攻撃命令、鹿ケ谷の陰謀へと展開していくことになる。
 治承3年の政変(1179年)で忠清は、解官された藤原為保に代わり上総介となり、従五位下に叙せられた。その際、「坂東八ヵ国の侍の別当」として東国の武士団を統率する権限も与えられたとされる。上総国の国衙を掌握した忠清は、上総広常に対して恩を忘れた強圧的な態度に転じ、陳弁のため上洛した広常の子・能常を拘禁する。忠清の圧迫に怒った広常は、やがて平氏に反旗を翻すことになる。
 治承4年(1180年)5月の以仁王の挙兵では、弟の景家や嫡子の忠綱とともに以仁王を追撃する。宇治川では馬筏を組んで渡河を決行、源頼政らを討ち取った。以仁王の生死は不明で南都に逃げ込んだという情報も流れたことから、平重衡・維盛は南都に攻め込もうとするが、忠清は「晩に臨みて南都に着くの条、思慮あるべし、若き人々は軍陣の子細を知らず」と制止した。 同年9月に頼朝の挙兵で東国が動乱状態になり、東海道諸国に頼朝追討の宣旨が下された。22日、追討使として平維盛が軍を率いて福原を進発すると、忠清は侍大将として付き従った。10月18日、追討軍は駿河国に達して富士川で反乱軍と対峙するが、数万の敵兵に対して官軍はわずか千騎という有様で、忠清は形勢不利と判断して維盛に撤退を進言。敗戦の報に清盛は激怒し、維盛を流罪、忠清を死罪にするよう命じたが、平盛国の執り成しで許されたという。
 寿永2年(1183年)7月の平家都落には出家して同行せず、畿内に留まって源義仲との和睦を図るなど独自の動きを見せる。一ノ谷の戦いが終結した後の元暦元年(1184年)7月、忠清は平田家継・平信兼らとともに平氏の本拠地の伊賀・伊勢で大規模な反乱(三日平氏の乱)を起こした。東国軍の主力はすでに源範頼に率いられて鎌倉に帰還していたため、京都の防備は手薄になっていた。この頃、鎌倉から伊賀国に大内惟義、伊勢国に山内首藤経俊が代官として配置され、平氏や義仲の残党狩りが行われていた。反乱の背景には、鎌倉方の強権支配に対する反発があったと推測される。 鎌倉方の佐々木秀義が戦死するなどの激戦が展開された後、反乱は鎮圧される。家継は戦死するが、忠清は逃亡し潜伏を続ける。
 翌年、源義経が屋島に出撃する時に、後白河法皇は忠清の脅威を懸念して制止しようとするなど、その存在は侮れないものだった。平氏一門が壇ノ浦の戦いで滅亡した後の5月、忠清は志摩国麻生浦で加藤光員の郎党に捕らえられ、同16日に六条河原で処刑された。

伊藤忠綱 伊藤景清(平 景清)

 平安時代末期の武士。平氏政権の有力家人の一人。
 治承3年(1179年)11月、平清盛のクーデター(治承三年の政変)に伴う除目により左衛門少尉に任ぜられ、検非違使宣旨も受けた。翌年5月、平氏追討の兵を挙げた以仁王・源頼政の追討にあたって源兼綱らを斬り、その勲功により従五位下に叙位され、それ以後、上総大夫判官と呼ばれた。寿永2年(1183年)、源義仲の追討にも参加したが、倶利伽羅峠の戦いで戦死した。

 伊勢平氏の侍大将。平景清,悪七兵衛,上総七郎兵衛などと称される。伊勢・志摩の在地武士であると思われる。
 『山槐記』によれば、治承4年(1180年)、即位した安徳天皇を警護する十七人の滝口の武士の一人として清盛に推薦される。『吾妻鏡』は一ノ谷の合戦において熊谷直実と平山季重が平家を襲撃した際、これと戦った人物の一人として名前が登場する。
 『平家物語』では、景清に関するまとまった記述は「錣引」(屋島の戦いで、平景清と源氏方の美尾谷十郎国俊が格闘し、景清がつかんだ国俊の兜の錏が切れたという伝説)の逸話のみだが、その後、謡曲や幸若舞といった中世の芸能で景清の後日談が成長し、近世においては人形浄瑠璃や歌舞伎で「景清物」という一大分野に発展した。 

大日方能忍 伊藤景家

 日本達磨宗の開祖。能忍に関する明確な記録は乏しく、その行跡には謎や異説が多い。出自も未詳であるが、一説に平家の家人・藤原景綱の子であるとされる。没後、深法禅師と諡号されたともいう。
 比叡山の学僧であったが禅に傾倒し、摂津水田に三宝寺を建立して禅道場を開いた。能忍のもとには天台宗の主流をなす学僧に対立する別所聖などが多数集まるようになり、達磨宗と称した。このため、三宝寺は禅宗ではあったが、密教の行も修める禅・密兼修の寺であったともいわれる。なお、現在通称されている「日本達磨宗」という「日本」の字を付した呼称は、近世以降の研究者によって使用されるようになったもので、能忍在世当時のものではない。
 能忍の禅は独修によるものであり嗣法(禅宗での法統を受けること)すべき師僧を持たなかった。このことは釈尊以来の嗣法を重視する禅宗においては極めて異例であり、能忍の禅が紛いものであるとする非難や中傷に悩まされた。このため文治5年(1189年)、練中,勝弁の二人の弟子を宋に派遣し阿育王寺の拙庵徳光に自分の禅行が誤っていないか文書で問いあわせた。徳光は禅門未開の地で独修した能忍の努力に同情し、練中らに達磨像、自讃頂相などを与え印可の証とした。これを根拠に能忍の教えは臨済宗大慧派に連なる正統な禅と認められ、名望は一気に高まった。後に栄西や日蓮も能忍を「法然と並ぶ民衆を幻惑し念仏・禅門に趣かせる“悪鬼”」と呼んだが、これらもむしろ当時の能忍の影響力の大きさをうかがわせている。
 建久3年(1192年)、伊勢鈴鹿に江西寺を建立する。建久5年(1194年)、栄西と共に京で禅宗を起こす運動を始めるが延暦寺・興福寺の訴えにより朝廷から禅宗停止の宣旨が下される。能忍は大和多武峰の妙楽寺に拠り再起を図ったが、同年、甥の藤原景清(平景清)により暗殺された(文治5年殺害説もある)。ただし、能忍の死因には諸説あり、近年の研究では病死または事故死とする説が有力になりつつある。
 従来は弟子の懐鑑らの改宗によって能忍の法系は断絶したとする説が一般的だったが、近年の研究によって少なくとも文明年間(1469〜1487年)までは三宝寺に法灯が護持されていたことを示す資料が発見されている。

 藤原忠清の兄。平清盛・宗盛に仕えた譜代の有力家人。『玉葉』では平家の「後見」「有勢の武勇の者」と称されている。 清盛の3男でのちに棟梁となる宗盛の乳母父を勤める。平家の侍大将として各所の戦いに赴き、治承4年(1180年)5月の以仁王の挙兵では兄弟の忠清と共に反乱軍討伐に向かい、乱を鎮圧した。
 寿永2年(1183年)6月の篠原の戦いでは、大将を勤めた平維盛や上総判官藤原忠経(忠清の子)と内輪もめとなって壊滅的な敗北を喫した。『平家物語』では、この時に嫡男の飛騨太郎景高 (治承3年11月従五位下・左衛門少尉・検非違使)が討ち死にしたことから、景家が嘆き死にしたとするが、延慶本『平家物語』では出家遁世したとし、その後、水島の戦いに出陣している記述や、九条兼実の日記『玉葉』では山本義経に討ち取られて、瀬田の唐橋に晒し首とされるなど諸説があり、正確なその後は不明である。 

伊藤景高 伊藤景経
 以仁王挙兵の鎮圧に功があり、従五位下を授かった。『吾妻鏡』によると、以仁王を直接討ち取ったとされる。寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠の戦いの礪波山において戦死した。  父の景家は平家の棟梁・平宗盛の乳母父であり、景経は乳母子として宗盛に仕えた。『平家物語』では壇ノ浦の戦いで入水しきれずにいた宗盛を庇って討ち死にしたとされるが、『吾妻鏡』で壇ノ浦で捕虜となった人物に「前左衛門尉藤原経景(景経の誤記か)」の名があり、宗盛と共に鎌倉へ護送されたと見られる。その後の処分は不明。