| F951:尾藤公澄 | 藤原秀郷 ― 藤原千常 ― 佐藤公清 ― 尾藤公澄 ― 伊藤基景 | F952:伊藤基景 |

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| 伊藤景綱 | 伊藤忠清 |
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平忠盛・清盛に仕えた有力家人。古市の伊藤武者と称される。 |
保元の乱で平清盛の軍の先陣を務め、源為朝と戦う。この時、為朝の強弓を前に苦戦を強いられ、弟の忠直(伊藤六)が戦死した。平治の乱の直後には清盛の命で、二条天皇側近の大炊御門経宗,葉室惟方を逮捕している。 |
| 伊藤忠綱 | 伊藤景清(平 景清) |
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平安時代末期の武士。平氏政権の有力家人の一人。 |
伊勢平氏の侍大将。平景清,悪七兵衛,上総七郎兵衛などと称される。伊勢・志摩の在地武士であると思われる。 |
| 大日方能忍 | 伊藤景家 |
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日本達磨宗の開祖。能忍に関する明確な記録は乏しく、その行跡には謎や異説が多い。出自も未詳であるが、一説に平家の家人・藤原景綱の子であるとされる。没後、深法禅師と諡号されたともいう。 |
藤原忠清の兄。平清盛・宗盛に仕えた譜代の有力家人。『玉葉』では平家の「後見」「有勢の武勇の者」と称されている。 清盛の3男でのちに棟梁となる宗盛の乳母父を勤める。平家の侍大将として各所の戦いに赴き、治承4年(1180年)5月の以仁王の挙兵では兄弟の忠清と共に反乱軍討伐に向かい、乱を鎮圧した。 |
| 伊藤景高 | 伊藤景経 |
| 以仁王挙兵の鎮圧に功があり、従五位下を授かった。『吾妻鏡』によると、以仁王を直接討ち取ったとされる。寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠の戦いの礪波山において戦死した。 | 父の景家は平家の棟梁・平宗盛の乳母父であり、景経は乳母子として宗盛に仕えた。『平家物語』では壇ノ浦の戦いで入水しきれずにいた宗盛を庇って討ち死にしたとされるが、『吾妻鏡』で壇ノ浦で捕虜となった人物に「前左衛門尉藤原経景(景経の誤記か)」の名があり、宗盛と共に鎌倉へ護送されたと見られる。その後の処分は不明。 |