| F933:佐藤公清 | 藤原秀郷 ― 藤原千常 ― 佐藤公清 ― 尾藤公澄 | F951:尾藤公澄 |

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| 尾藤景綱 | 尾藤景氏 |
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『吾妻鏡』では左近将監の官職名で登場することが多いが、所々で右近将監とも記載されている。 |
元々の本貫地は、紀伊国北部の田仲・池田庄だったようで、歌人として有名な西行の出身氏族である同庄を拠点としていた佐藤氏と同族であった。 |
| 尾藤時綱 | 尾藤重吉 |
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鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家被官である御内人。 |
知基が出た尾藤氏は、信濃守護小笠原家に仕えて信州中野牧に拠っていたという。天文17年(1548年)、小笠原長時が武田信玄に敗れて没落すると、尾藤氏は遠江引佐郡に移住し、今川氏に属した。ところが、今川義元が桶狭間の合戦で戦死すると、遠江は松平家康の侵攻にさらされることになった。情勢の急変に対して重吉(源内)は嫡男の重房(又八郎)とともに尾張に移り、織田信長の家臣・森三左衛門に仕えた。その後、織田信長が上洛すると、源内・又八郎父子は森三左衛門とともに近江宇佐山城の守備に任じ、元亀元年(1570年)、朝倉・浅井連合軍に攻められて討ち死にした。ただ、『三河二葉松』には、増援に来た徳川配下の奥平美作守に助けられて撤退し、そのまま奥平家の属将となって三河国額田郡赤羽村に居を構えたとも書かれている。 |
| 尾藤主膳 | 尾藤知宣 |
| 源内の弟で遠江に残った主膳は今川氏に属し、永禄11年(1568年)、堀川城を築き、徳川家康が遠江侵攻を開始すると、堀江城の大沢氏と連携した土豪の新田友作,山村修理らとともに地元の農民など雑兵約1,700人を集めて堀川城に立て籠もった。しかし、翌永禄12年(1569年)3月27日、堀川城は徳川勢によって一方的に殺戮され、主膳は堀江城の大沢のもとへ逃れたが切腹させられた。 |
源内の2男で、永禄9年(1566年)に羽柴秀吉が墨俣に一夜城を築いたときに駆けつけて、秀吉の家人となった。天正元年(1573年)、知宣は近江国長浜で250貫を与えられて、黄母衣衆に列し、後に大母衣衆に変わったという。草創期の秀吉家中において、知宣は神子田正治,宮田光次,戸田勝隆らと並び称された古参の家臣で、その中でも最も軍事に通じていたという。 |
| 宇多頼忠 | |
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源内の3男・久右衛門頼忠は父や兄が去った引佐郡に残り、遠江に進出してきた武田信玄に仕えた。まさに、尾藤一族は乱世のなかで、それぞれが自立した道を模索していたといえよう。頼忠の長女は真田昌幸に嫁ぎ、真田幸村を生んでいる。天正3年(1575年)、長篠の戦いで敗れた武田氏が勢力を失うと、頼忠は兄の知宣を頼って近江の長浜城へ赴き、秀吉の弟・秀長に仕えるようになった。秀長が出世するとともに頼忠も知行を増やし、秀長が大和100万石に封じられると13,000石を領する重臣に出頭した。そして、次女を豊臣秀吉の寵臣・石田三成に嫁がせ、豊臣政権内における立場を強化し、家老として藤堂高虎に次ぐ地位を占めた。 |