F865:後藤則明 | 藤原魚名 ― 藤原利仁 ― 斎藤伊傳 ― 後藤則明 ― 仙石久重 | F872:仙石久重 | ● |
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仙石秀久 | 仙石久勝 |
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天文21年(1552年)1月26日、美濃の豪族・仙石久盛の4男として美濃で生まれる。はじめ越前の豪族・萩原伊予守国満の養子となるが、相次ぐ兄の死により呼び戻されて、仙石氏の家督を継いだ。そして美濃斉藤氏に仕えたが、斎藤氏が信長によって滅ぼされると、信長の下で台頭していた羽柴秀吉の家臣として仕える。 |
天文21年(1552年)、美濃国にて仙石久盛の子として誕生。初め美濃斎藤氏に仕えたが、後に織田氏に仕えると家督を兄弟で養子先から戻った秀久に譲った。織田信長の比叡山焼き討ちに参陣した。 |
仙石秀範 | 仙石忠政 |
仙石秀久の次男として生まれる。慶長4年(1599年)、豊臣家から3000石を与えられて従五位下・豊前守に叙任された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与したため、戦後、東軍に与した父から廃嫡された上に勘当されて浪人となり、出家して京都で寺子屋の講師を務めていたという。
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長兄の仙石久忠は盲目のために検校となり、次兄の仙石秀範は関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後に父から勘当されて廃嫡となったため、嫡男となった。 |
仙石政明 | 仙石政房 |
万治2年(1659年)3月1日、仙石忠俊の長男として生まれる。忠俊は寛文7年(1667年)2月に早世したため、政明が祖父・政俊の養子となり、寛文9年(1669年)2月25日に政俊が隠居すると、家督を継いで第3代藩主となった。このとき、政俊の弟・仙石政勝に2000石を分与したため、上田藩は5万8000石となった。
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寛文13年(1673年)4月22日、仙石政治の子として生まれる。秀久の長男・久忠は本来なら家督継承者だったが、若い頃に失明したために廃嫡されて京都に隠棲した。しかし久忠の弟・仙石忠政は兄の子である久治を家老として召し出し、兄の家系は本家に仕える家老として続いていた。 |
仙石久道 | 仙石政美 |
安永3年(1774年)5月12日、第4代藩主・仙石久行の長男として生まれる。久道は久行が正室と結婚する前に側室との間に生まれた庶長子であったため、はじめは世子として認められず、土岐姓を称していた。しかし久行と正室との間に嗣子が生まれなかったため、天明5年(1785年)に父が死去すると、仙石に復姓して家督を継いだ。 |
第5代藩主・仙石久道の長男として生まれる。文化11年(1814年)9月20日、父が病で隠居したため、家督を継いで第6代藩主となる。しかし父の時代からの藩財政の悪化などから、文政2年(1819年)に藩の借金は6万両に膨れ上がっていた。このため、仙石氏の家臣団は藩政改革を目指したが、その改革方針をめぐって対立が起こる。 |
仙石久利 | 仙石政固 |
文政3年(1820年)2月23日、第5代藩主・仙石久道の12男として出石で生まれる。文政7年(1824年)5月に異母兄で第6代藩主の仙石政美が死去した。政美には嗣子が無かったため、隠居していた父・久道は後継者の選定会議を江戸で開いたが、この会議の際に家老の仙石久寿(左京)が10歳になる息子の仙石小太郎を連れて出府した。そして選定会議で久道の末子である久利が後継者と決まり、江戸幕府に養子届けを出して7月13日に受理され、8月6日に家督を継いで第7代藩主となったのである。ただし、幼少のために久道が後見した。 |
天保14年(1843年)12月15日、第7代藩主・仙石久利の兄である土岐政賢の長男として出石で生まれる。父は第6代藩主・仙石政美が嗣子無く死去して仙石騒動が起こったとき、本来なら後を継ぐ資格を持っていた人物だったが、病弱なために弟の久利に家督を奪われた人物であった。しかし久利にも嗣子が無かったため、早くから久利の世子として指名されていた。 |
仙石政勝 | 仙石久邦 |
寛文9年(1669年)、藩主であった兄の政俊が隠居する時に幕府に願い出て、藩領6万余石のうち信濃国小県郡矢沢村など8村(半郷1村含む)2000石を分知された。矢沢に陣屋を構えたが、江戸定府であったため、代官が支配した。 |
正保2年(1645年)12月19日に父の仙石久隆の遺領4,000石の家督を相続。慶安3年(1650年)12月15日、小姓組組頭。承応2年(1653年)9月27日には小姓組番頭に昇進し、万治元年(1658年)1月11日には書院番番頭に転じた。寛文9年(1669年)7月3日に伏見奉行となり、近江国浅井郡に2,000石加増され都合6,000石となる。この際、上野国・甲斐国の采地を摂津国島下郡,西成郡,河内国渋川郡,大県郡に改められた。天和元年(1681年)11月21日に伏見で死去。享年66。 |
仙石久治 | 仙石久尚 |
仙石因幡守、または定火消時代の仙石兵庫として知られる。父・久信は側衆まで昇進し、叔父の久尚は大目付や留守居役などを勤めた。 |
承応元年(1652年)8月19日、6000石の旗本仙石久邦の次男として誕生。 |