<藤原氏>北家 利仁流

F865:後藤則明  藤原魚名 ― 藤原利仁 ― 斎藤伊傳 ― 後藤則明 ― 仙石久重 F872:仙石久重

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仙石秀久 仙石久勝

 天文21年(1552年)1月26日、美濃の豪族・仙石久盛の4男として美濃で生まれる。はじめ越前の豪族・萩原伊予守国満の養子となるが、相次ぐ兄の死により呼び戻されて、仙石氏の家督を継いだ。そして美濃斉藤氏に仕えたが、斎藤氏が信長によって滅ぼされると、信長の下で台頭していた羽柴秀吉の家臣として仕える。
 元亀年(1570年)、姉川の戦いで浅井方の武将・山崎新平を討ち取り、天正2年(1574年)には、秀吉から近江野洲郡に1000石を与えられた。天正6年(1578年)にはさらに4000石を加増される。
 やがて秀吉が信長から中国征伐を命じられると、秀久はそれに従軍して戦功を挙げる。天正9年(1581年)には黒田孝高らと淡路島に渡って岩屋・由良城を陥落させた。天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で死去、秀吉の中国大返しと山崎の戦いが始まると、秀久は淡路で明智光秀方に与した豪族達を討伐する任にあたり、淡路平定に貢献した。その後の賤ヶ岳の戦いでは、羽柴秀勝とともに十二番隊の将として参戦する予定であったが、長宗我部元親と共闘した菅達長に洲本城が占拠されたという報を聞きつけた秀吉は、秀久に四国勢の抑えとして急遽近江から淡路に出向く命を与えた。これにより、柴田側に与した四国の長宗我部元親と対陣することとなる。淡路入りした秀久は菅達長を破り洲本城を奪還。その後、小豆島を占拠し、十河存保の救援するために四国へ渡る。手始めに高松頼邑が守る喜岡城を攻めたが、落とせずに撤退。ついで讃岐引田に上陸するも、引田の戦いにおいて、緒戦こそ先鋒の香川之景らの部隊を破り優勢に持ち込むも、その後は元親勢の援軍が到着したことにより、劣勢に陥ってしまう。結局、元親の前に衆寡敵せず、大敗を喫してしまった。一説では、この戦いの最中に仙石軍は幟を取られるという失態を見せたといわれている。敗戦後、秀久は淡路と小豆島の守りを固め、制海権の維持に務めた。
 天正11年(1583年)に賤ヶ岳の戦いが終結すると、秀久はこれまでの功を評価され、淡路国洲本城主5万石の大名となる。淡路受領後は淡路水軍,小西行長,石井与次兵衛,梶原弥助の水軍を統括し、紀州討伐では湯川一族討伐で功を挙げ、第二次四国征伐の折には喜岡城を落とし、木津城攻めでは城の要を抑え、城内の水源を絶つなど活躍した。天正13年(1585年)には、四国征伐の功績により、秀吉から讃岐高松10万石を与えられた。
 天正14年(1586年)、秀吉の九州征伐が始まると、秀久は十河存保や長宗我部元親,信親らの軍監として九州に渡海し、島津軍と対峙する。ここで秀久は功に焦って無謀な作戦を立ててしまう。そしてこの作戦により戸次川の戦いで島津家久率いる島津軍に豊臣軍は大敗し、元親の嫡男・信親や十河存保といった有力武将の多くが戦死してしまう。さらに、秀久自らは諸将の軍を差し置いて小倉城に撤退。その後は讃岐へ逃げ帰るという醜態を見せた。これらの行状に激怒した秀吉は、秀久の所領を没収して、高野山へ追放した。
 その後、徳川家康の斡旋により、天正18年(1590年)の小田原征伐の時には陣借りという形で秀吉の軍に加わった。このとき秀久は糟尾の兜と白練りに日の丸を付けた陣羽織を着て、紺地に無の字を白く出した馬印を眞先に押し立て、手勢を率いて諸軍の先に進んだといわれている。さらに、鈴を陣羽織一面に縫いつけるという際立つ格好をして合戦に参加。自ら十文字の槍を振るって力戦し、伊豆山中城攻めでは先陣を務め、小田原城早川口攻めでは虎口の一つを占拠するという抜群の武功を挙げた。箱根にある地名「仙石原」は、彼の奮闘の地であったことを記念して付けられたものである。この功績により、秀久は信濃小諸に5万石を得て、大名として復帰した。文禄元年(1592年)、秀吉の命令で朝鮮出兵が始まると、肥前名護屋城の築城工事で功績を挙げ、それにより従五位下・越前守に叙任された。
 文禄3年(1594年)には秀吉の命令で始まった伏見城築城工事においても功績を挙げたため、7000石を加増され、5万7000石の大名となった。
 慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、家康と懇意であった秀久は早くから徳川氏に接近した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも徳川方として参戦し、家康から北国筋の鎮撫を命じられている。そして、徳川秀忠軍に従軍して上田城攻めに参加したが、城方の真田昌幸の善戦により秀忠軍は足止めを食い、秀忠は関ヶ原本戦に遅参してしまう。ここで秀久は秀忠の遅参について激怒している家康への謝罪に努めたため、秀忠が将軍就任後、特に重用されるようになる。慶長14年(1609年)には秀忠の将軍宣下御拝賀に随行し、同16年(1611年)正月2日の御謡初めの際には着座している。
 戦後は所領を安堵され、信濃小諸藩の初代藩主となった。秀久の治世においては農民達に過酷な課役を与えたことから佐久郡では一郡逃散という失態を犯すこととなるが、一方で、笠取垰,小諸城及び城下町を現在のようにしたのは秀久の功績でもある。また、街道の伝馬制度や宿場街の整備など多様な治績を残している。慶長19年(1614年)、江戸から小諸へ帰る途中に発病し、武州鴻巣にて5月6日に死去。享年63。跡を3男・忠政が継いだ。

 天文21年(1552年)、美濃国にて仙石久盛の子として誕生。初め美濃斎藤氏に仕えたが、後に織田氏に仕えると家督を兄弟で養子先から戻った秀久に譲った。織田信長の比叡山焼き討ちに参陣した。
 のち福島正則に仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにも参陣した。戦後、正則が広島藩に加増・移封されると、三原城番を任された。
 元和5年(1619年)、主家の改易により浪人となったが、山内忠義にまねかれ土佐藩士(重臣)となった。
 寛永15年1月2日(1638年2月15日)、土佐藩・中老の立場であったが島原の乱に土佐藩の使者として派遣され、子息3人と馬周りの毛利久八らと現地に参陣した。同時期に着陣した幕府老中・松平信綱と戸田氏鉄に攻め口を所望するも断られたが、信綱から相談役として遇された。子息3人と毛利久八は最後の総攻撃に参加している。土佐藩兵を率いていた雨森氏康が前日の板倉重昌による総攻撃に随伴し、銃撃を受け負傷したため、雨森に代わって土佐藩軍を率いた。
 寛永16年(1639年)3月8日死去。88歳。
 剣豪であったといわれており、二十人斬りなどの多くの武勇伝が語り継がれている。高知県高知市の愛宕山にある愛宕神社は、寛永6年(1629年)に久勝が山城国から火伏せの神である愛宕権現を勧請したのが始まりといわれている。

仙石秀範 仙石忠政

 仙石秀久の次男として生まれる。慶長4年(1599年)、豊臣家から3000石を与えられて従五位下・豊前守に叙任された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与したため、戦後、東軍に与した父から廃嫡された上に勘当されて浪人となり、出家して京都で寺子屋の講師を務めていたという。
 慶長19年(1614年)に大坂の陣が始まると、大坂城に入って豊臣方として戦った。このとき、豊臣家から大名衆として3万石前後の所領を与えられている。しかし翌年の夏の陣で豊臣氏の敗北が決定的となると、丹波に逃亡した。その後の秀範の行方は不明である。夏の陣で討死したともいわれている。
 ただし、10歳になる息子・長太郎は伯耆で捕らえられ、夏の陣後の閏6月22日に六条河原で乳母の子供と共に斬られ、晒し首にされた。ほかに徳という女子がおり、叔父の仙石忠政に預けられ、寛永12年(1635年)に没した。

 

 長兄の仙石久忠は盲目のために検校となり、次兄の仙石秀範は関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後に父から勘当されて廃嫡となったため、嫡男となった。
 父と共に徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、父と共に東軍に属し、真田昌幸の信濃上田城攻めに参加した(上田城の戦い)。この時の功により、徳川秀忠の「忠」の字を拝領して、忠政と改めたといわれている。また、この時期に従五位下・兵部大輔に叙位・任官している。
 慶長19年(1614年)、父の死去により家督を継ぎ、小諸藩5万石の第2代藩主となる。同年からの大坂の陣には徳川方として参加し、大坂冬の陣で黒門口を担当し、夏の陣では首級11を得た。その戦功により、元和8年(1622年)9月25日に信濃上田6万石に加増移封された。
 小諸城主時代は逃散した領民の帰村や浪人の帰農を行うなど、領内の安定に努める一方で、貫高制から石高制に変えるなど領内制度の改革にも着手した。上田城主時代には真田の後を引き継ぎ、新田開発や産業の推進に力を注ぎ、兵農分離政策を進め、領内を8つの組で構成し各村に庄屋を置くなど支配体制を強化した。また、寛永3年(1626年)からは上田城の大改修にとりかかっている。しかし、寛永5年(1628年)4月20日に死去。享年51。跡を長男の政俊が継いだ。

仙石政明 仙石政房

 万治2年(1659年)3月1日、仙石忠俊の長男として生まれる。忠俊は寛文7年(1667年)2月に早世したため、政明が祖父・政俊の養子となり、寛文9年(1669年)2月25日に政俊が隠居すると、家督を継いで第3代藩主となった。このとき、政俊の弟・仙石政勝に2000石を分与したため、上田藩は5万8000石となった。
 しかし幼少のため、実権は政俊が握っていた。延宝2年(1674年)7月に政俊が死去すると、仙石政勝や松平光勗らの補佐を受けた。藩の財政がこの頃から行き詰まったため、延宝3年(1675年)7月に上米・倹約令などを出している。天和元年(1681年)には酒井忠能の改易により、駿河田中城受け取り役を務めた。貞享元年(1684年)には越後高田城在番を務めている。
 宝永3年(1706年)1月28日、上田藩から出石藩へ移封された。享保2年(1717年)6月6日に死去。享年59。男子6人が全て早世したため、分家の仙石政房を養子にして跡を継がせた。

 

 寛文13年(1673年)4月22日、仙石政治の子として生まれる。秀久の長男・久忠は本来なら家督継承者だったが、若い頃に失明したために廃嫡されて京都に隠棲した。しかし久忠の弟・仙石忠政は兄の子である久治を家老として召し出し、兄の家系は本家に仕える家老として続いていた。
 政房は延宝6年(1678年)に父が死去したため、家督を継いで家老として政明に仕えた。宝永3年(1706年)の信濃上田藩から但馬出石藩への移封では、出石城受け取りなど移封の全責任者を務めている。
 仙石政明の実子は全て早世していた。このため分家の政房と久貞(政房の従兄弟)が後継者をめぐって争った末の宝永5年(1708年)7月21日に政房が政明の養子となったのである。享保2年(1717年)に政明が死去すると、家督を継いで第2代藩主となる。政房は自らの権力を強化するため、対立していた久貞を享保14年(1729年)に知行削減の上で隠居させ、弟の政友を家老に任命して久忠系統者による本家独占化を図っている。
 しかし、藩の財政難などから上米を行っている。享保7年(1722年)11月28日に奏者番に任じられ、享保19年(1734年)6月5日に寺社奉行に任じられるなど、幕閣として幕政にも参与した。後には老中にまで栄進するという話もあったが、享保20年(1735年)3月に病に倒れ、4月24日に死去した。享年63。跡を婿養子の仙石政辰が継いだ。

仙石久道 仙石政美

 安永3年(1774年)5月12日、第4代藩主・仙石久行の長男として生まれる。久道は久行が正室と結婚する前に側室との間に生まれた庶長子であったため、はじめは世子として認められず、土岐姓を称していた。しかし久行と正室との間に嗣子が生まれなかったため、天明5年(1785年)に父が死去すると、仙石に復姓して家督を継いだ。
 久道は藩政を家老の仙石久賢に任せて遊興に耽るなどした。そのため、文化5年(1808年)に久賢が死去すると藩政を見る者がいなくなり、文化8年(1811年)には江戸藩邸の類焼などによる再建による出費なども相次いで、文政2年(1819年)の時点では6万両に及ぶ借金を築いたといわれている。久道はそれより5年前の文化11年(1814年)9月20日、持病の癪気を理由にして、家督を長男の政美に譲って隠居する。そして出石に隠居所を建てて、なおも藩政に介入しようとしたが、これに反対する家臣団と対立することとなり、藩政のさらなる混乱を招いている。
 文政7年(1824年)5月に政美が死去すると、12男の久利を第7代藩主に擁立し、自らは幼少の久利の後見人として実権を握った。仙石騒動が表面化する直前の天保5年(1834年)9月4日に死去した。享年61。久道の行状なども仙石騒動を招いた遠因とされる。 

 第5代藩主・仙石久道の長男として生まれる。文化11年(1814年)9月20日、父が病で隠居したため、家督を継いで第6代藩主となる。しかし父の時代からの藩財政の悪化などから、文政2年(1819年)に藩の借金は6万両に膨れ上がっていた。このため、仙石氏の家臣団は藩政改革を目指したが、その改革方針をめぐって対立が起こる。
 改革派の筆頭家老・仙石久寿は産物会所を中心にして生糸の専売・魚市場の育成による重商主義政策をかかげたが、守旧派の家老で仙石左京家の分家筋である仙石久恒(造酒)は保守的な質素倹約による財政再建策をかかげて対立し、政美は左京の政策を支持して造酒を政治から遠ざけ、文政4年(1821年)7月には久寿を大老にまで任じて改革を任せた。しかしその最中に急死した。享年28。
 政美にあった唯一の男児は早世していたため、嗣子が無かった。このため、隠居していた政美の父・久道は後継ぎ選定会議で政美の末弟(異母弟)である12男・久利を急遽養子にして後を継がせることにしたが、この後継ぎ問題も原因で後に仙石騒動が起こることとなる。 

仙石久利 仙石政固

 文政3年(1820年)2月23日、第5代藩主・仙石久道の12男として出石で生まれる。文政7年(1824年)5月に異母兄で第6代藩主の仙石政美が死去した。政美には嗣子が無かったため、隠居していた父・久道は後継者の選定会議を江戸で開いたが、この会議の際に家老の仙石久寿(左京)が10歳になる息子の仙石小太郎を連れて出府した。そして選定会議で久道の末子である久利が後継者と決まり、江戸幕府に養子届けを出して7月13日に受理され、8月6日に家督を継いで第7代藩主となったのである。ただし、幼少のために久道が後見した。
 ところが自分の息子を連れて出府したため、左京の政敵である仙石久恒(造酒)が「我が子を藩主に立てて主家を乗っ取るつもりだ」と久道に訴え、その結果として文政8年(1825年)に左京は家老職を罷免されて失脚した。こうして造酒が藩の実権を握ったが、造酒は質素倹約だけの財政政策しか打ち出せず、藩財政が窮乏する出石藩の再建はならなかった。このため、久道は造酒を解任し、再び左京を取り立てた。このことがよほどショックだったようであり、造酒はほどなくして病死する。
 政敵のいなくなった左京は、以前の重商主義政策に加えて、厳しい倹約や運上(営業税)の取立て強化などを行った。特に面扶持という政策は家族1人に1石8斗を支給するだけという厳しいものだったため、藩士の反発を買うことになる。そして天保2年(1831年)に入ると、左京の息子・小太郎が老中首座・松平康任の姪を正室に迎えたため、左京に反発する酒匂清兵衛(造酒の実弟)らが久道に「左京は主家を横領している」と訴えた。しかし、久道はこの訴えを却下し、逆に酒匂らは蟄居に追い込んだ。さらに勝手役の家老・河野瀬兵衛が首謀者であるとして追放した。
 追放された河野は江戸詰の仙石家の家臣・神谷転と手を結んで、幕閣や仙石家の分家に左京の非を訴えた。これに対して左京は江戸南町奉行の筒井政憲に河野と神谷の捕縛を依頼し、河野を捕らえて天保6年(1835年)に死罪に処した。しかし神谷は機転を利かし、捕縛される直前に友鷲と号して虚無僧になっていたため、仙石家に引き渡されることがなく慰留された。このため、事件は町奉行から寺社奉行である脇坂安董が担当することとなった。安董は事件の調査をしていくうちに、老中首座の松平康任までもが関わっていることがわかった。ここで事件を表沙汰にすれば、康任を失脚させて自分がいずれは幕府の権力者になることができると考えた安董は、天保6年(1835年)9月に評定所で吟味を開始した。そして12月に出た採決の結果、左京に罪があるとして左京は獄門、小太郎は遠島、その側近や用人は死罪、そして藩主である久利も「家政不取締り」を理由にされて5万8000石の所領を3万石に減らされた。老中の松平康任は強制隠居・謹慎となった。これがいわゆる仙石騒動であり、松平を罷免した脇坂は天保8年(1837年)に老中に任じられている。
 仙石騒動の後、藩政は造酒の流れを汲む守旧派の荒木玄蕃が行なった。しかし政治能力に乏しい荒木では藩財政再建はならず、久利は天保10年(1839年)に解任し、以後は自らが親政する形をとった。ところが久利は、造酒の弟・酒匂清兵衛を重用して藩政改革を行うようになる。これが先の騒動で追放された桜井一太郎には不満であり、この桜井から久利が酒匂を重用していることを幕閣に訴えられた。幕府としては、先の騒動に関連のある人物を重用するということは、自分たちの採決をないがしろにしているということになる。このため天保14年(1843年)8月、幕府は再び久利に対して酒匂の切腹などを命じた。そして久利の後見人として幕府は先の桜井一太郎と堀新九郎を勘定奉行・家老として送り込んだ。つまり幕府は、幕府と深い繋がりのある2人を出石藩の中枢に送り込むことで、久利を幕府の意向による傀儡藩主に仕立て上げたのである。
 藩政の実権を掌握した新九郎は藩財政の再建を目指し、嘉永4年(1851年)には村替えにより実質的に2500石の加増となった。この政治手腕を讃えられて、新九郎は家禄を倍増の500石とされ、中興の忠臣と讃えられた。しかし幕府の後ろ盾を持って藩政を仕切る新九郎のことを久利も家臣団も快く思わなかった。嘉永7年(1854年)4月には多田弥太郎が新九郎の専横を糾弾したが、久利は多田を入牢に処した。しかし幕末の動乱で幕府の影響力が弱まったのを見た久利は、文久2年(1862年)12月に甥で養子の仙石政固と手を結んで新九郎を切腹に処したのである。そして藩論を尊王派で統一した。
 久利は戊辰戦争では新政府に恭順した。明治2年(1869年)6月の版籍奉還により、出石藩知事に任じられたが、明治3年(1870年)1月28日には家督を養子の仙石政固に譲って隠居した。明治9年(1876年)に東京に移る。明治30年(1897年)6月6日死去。享年78。 

 天保14年(1843年)12月15日、第7代藩主・仙石久利の兄である土岐政賢の長男として出石で生まれる。父は第6代藩主・仙石政美が嗣子無く死去して仙石騒動が起こったとき、本来なら後を継ぐ資格を持っていた人物だったが、病弱なために弟の久利に家督を奪われた人物であった。しかし久利にも嗣子が無かったため、早くから久利の世子として指名されていた。
 幕末期には久利と協力して藩政を行い、仙石騒動後に藩政を牛耳っていた堀新九郎を文久2年(1862年)12月には切腹に追い込んでいる。慶応元年(1865年)5月15日に久利の養嗣子となり、明治元年(1868年)4月には学校権判事に任じられた。明治3年(1870年)1月28日に久利が隠居したため、家督を継いで藩知事となる。
 明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により藩知事を免官された。後に従二位・子爵となる。大正6年(1917年)10月23日に死去。享年75。 

仙石政勝 仙石久邦

 寛文9年(1669年)、藩主であった兄の政俊が隠居する時に幕府に願い出て、藩領6万余石のうち信濃国小県郡矢沢村など8村(半郷1村含む)2000石を分知された。矢沢に陣屋を構えたが、江戸定府であったため、代官が支配した。
 延宝元年(1673年)年の暮れに幕府に暇願いを出し、延宝2年(1674年)2月に矢沢に入り4月まで滞在した。この時、すでに隠居した兄の政俊(当時は剃髪して道休)と会っている。この時が最初で最後の矢沢入りであった。同年政俊が没すると、本藩を相続した仙石政明を補佐した。延宝6年(1678年)12月3日、盗賊改役となった。貞享2年(1685年)12月29日から貞享4年(1687年)まで御勘定頭を務めた。これらの功績により、上野国下仁田村,藤川村300余石と武蔵国毛呂本郷村,小田谷村に430余石を賜った。
 『寛政重修諸家譜』によると、元禄9年(1696年)に嫡男・仙石政因に家督を譲り隠居した。しかし、元禄6年(1693年)8月に政勝が『仙石政因宛同政勝覚書』をしたためているところから、この年に実質隠居しているとみられる。
 その後、本家は信濃国から但馬国出石藩に移封されたが、政勝の子孫は明治維新まで信濃国矢沢の地を治めた。領主は、政勝,政因の後、政啓→政寅→政和→政寿、そして政相(明治元年に政雄に改名)の時に明治維新を迎えた。

 正保2年(1645年)12月19日に父の仙石久隆の遺領4,000石の家督を相続。慶安3年(1650年)12月15日、小姓組組頭。承応2年(1653年)9月27日には小姓組番頭に昇進し、万治元年(1658年)1月11日には書院番番頭に転じた。寛文9年(1669年)7月3日に伏見奉行となり、近江国浅井郡に2,000石加増され都合6,000石となる。この際、上野国・甲斐国の采地を摂津国島下郡,西成郡,河内国渋川郡,大県郡に改められた。天和元年(1681年)11月21日に伏見で死去。享年66。
 家督は長男・仙石久信が5,000石、次男・仙石久尚が1,000石をそれぞれ継いだ。
 仙石久邦の領地である上野国碓氷郡人磯部村では、水利が不便で、農民が水不足に悩んでいた。そこで領主であった久邦によって明暦4年(1658年)に用水工事が計画・開始されたが、この工事が他領であり、隣村である人見村に流れる碓氷川に堰を作り、磯部村に用水を引くというものであり、当時の人見村の領主であった吉良氏にはこれらの工事に何ら益がないことであったこともあり、領地を接する吉良氏の反対・妨害にあい、工事は寛文6年(1666年)から寛文8年(1668年)の間、難航・頓挫した。このため、この吉良氏からの親子2代にわたる妨害を退けるためにも、直接幕府の力によって行うよりなしとし、久邦は自らの領地を幕府に返し、領地替えを願い出て、寛文9年(1669年)に、久邦の領地は上野国・甲斐国の采地から摂津国島下郡・西成郡・河内国渋川郡・大県郡に改められ、移された。そして、これにより磯部村は幕府領となったので、幕府の代官の指揮と幕府の直営工事により、寛文13年(1673年)に人見堰が完成し、磯部村の村内二百町歩(200ha)の水田を灌漑することができた。

仙石久治 仙石久尚

 仙石因幡守、または定火消時代の仙石兵庫として知られる。父・久信は側衆まで昇進し、叔父の久尚は大目付や留守居役などを勤めた。
 貞享3年3月1日(1686年3月24日)、徳川綱吉に初御目見えを済ませる。父の久信が元禄12年1月5日(1699年2月4日)が死去すると父の家督と知行4700石を相続し、弟の久豊に300石を分知する。のちに久豊が叔父の久尚の養子となると300石は幕府に収公される。同年11月9日(1699年12月29日)に小姓並となるが20日後に退く。
 宝永7年(1710年)に定火消に就任し、同年12月18日(1711年2月8日)に布衣を許可される。享保3年(1718年)刊行の須原屋茂兵衛蔵板武鑑において、定火消御番に「鉄砲隊 御茶の水 宝永七 五千石 仙石兵庫」との記載がある。ちなみに武鑑記載の五千石は誤記の可能性が高い。また同年(1718年)に配下の臥煙と加賀藩前田綱紀が各自火消として組織した加賀鳶との消口争いが発生している。争いは町奉行大岡忠相による調査により、将軍・徳川吉宗が久治に厳重注意を与えた。
 享保4年(1719年)に叔父の久尚が大目付から小姓組番頭となっているが、久治も翌享保5年(1720年)に小姓組番頭となって従五位下因幡守に叙任され、享保8年(1723年)に書院番頭に転じる。
 実子の兵三郎は早世し、他の後継者が定まらないまま60を越えたため、大身旗本家の御家存続を巡って家中が紛糾した。同時期に分家の叔父の久尚も、家中が跡継ぎ問題で紛糾している。このため、仙石久道の娘を養女として迎え、母の一族の安部信厚の6男の久住を婿養子とし、元文3年(1738年)に跡を継がせて隠居する。寛保2年(1742年)死去。享年68。
 定火消として著名であったが、大名火消との度々の諍いなどで 「身ノ程ヲ弁ヘヌ武骨一辺ノ愚物」など幕府関係者や他大名からは酷評されている。分家(叔父の家)が養子との不和で大いに揉める事態を見ながら、自身も還暦過ぎて後継者を迎えなかった点も後世の仙石本家に批判されている。しかし、久治の血筋は絶えており、大名本家(分家旗本の騒動は連座に繋がる)の事情もあり否定的な記述になってしまっている。

 承応元年(1652年)8月19日、6000石の旗本仙石久邦の次男として誕生。
 天和元年(1681年)12月23日、父の遺領6,000石のうち5,000石は長男である兄の久信が継いだが、近江浅井郡の1,000石は久尚に分知され、新しい旗本仙石分家を興した。
 元禄3年(1690年)12月3日、小姓組組頭となって復職。
 元禄15年(1702年)12月15日に高家の吉良義央(上野介)邸を旧赤穂藩士の集団が襲撃した「赤穂事件」の際には、旧赤穂藩士側の盟主である大石良雄は、吉田兼亮らを大目付役宅すなわち久尚の下に派遣して、犯行を自首して出ている。これを受け、御徒目付を泉岳寺に派遣し大石に審問を行なっている。
 赤穂義士を四大名家に分けてお預かりとしたが、赤穂浪士は一旦全員を仙石邸へ移送され、仙石邸での取り調べの後、赤穂浪士にそれぞれの預かり先を言い渡した後、仙石邸から4藩に引き渡した。久尚は義士を罪人として厳しい対応をとるよう指示している。翌年2月4日、荒木ら上使により切腹の処分が各お預かり先に伝えられた。
 正徳4年(1714年)、目付・稲生正武,中町奉行・坪内定鑑と共に江島生島事件の捜査に当たり、また同年12月28日には長崎に派遣されている。
 享保4年(1719年)1月11日に大目付を退任して小姓組番頭に転じ、享保9年(1724年)1月11日には旗本の最高職である留守居に就任。この際に上総市原郡に500石の加増があり、都合2,000石となった。
 久尚は後継者の男子に恵まれなかった。兄・久信の子の久豊を養子に迎えたが先立たれ、本家の家臣の仙石左京家から久近を迎えたが、80過ぎても家督を譲ろうとしなかった。このため久尚は旗本仙石分家の断絶を恐れる家臣団と対立した。享保16年(1731年)1月16日、80歳で老齢のために留守居役を辞し、慰労のため時服5領を与えられた。その後、下総印旛郡の領地は上総長柄郡と山辺郡に移された。
 家中の強い要請により享保17年(1732年)8月26日に82歳で隠居し、敵対していた久近にようやく家督を譲る。失意の久尚は仏の教えにすがろうと出家したが、病に倒れ2年後の享保20年(1735年)7月23日に死去。享年84。駒込の養源寺に葬られる。