F865:後藤則明 | 藤原魚名 ― 藤原利仁 ― 斎藤伊傳 ― 後藤則明 ― 後藤章明 | F866:後藤章明 |
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後藤章明 | 後藤資茂 |
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後藤氏は、鎮守府将軍・藤原利仁の5代の孫・公則が肥後守に任ぜられ、肥後の藤原から後藤氏を名乗ったのが始まりという。肥前の後藤氏は公則の曾孫・坂戸判官・章明が、肥前国墓崎の総地頭になったことが最初である。坂戸は河内国にあり、公則は河内守にも任ぜられ、章明の祖父則経も河内守であったことから、後藤氏は河内国と関係を持ち、ついには土着して在地豪族化していったものと思われる。 | 源義家・為義に仕えて各地を転戦し、元永年中(1118~20)にはじめて墓崎に下向したといわれる。そして、御船山麓の武雄神社を遷座させ、その跡地に城を築いて本拠とした。 |
後藤宗明 | 後藤直明 |
建保6年(1218)の源披所領譲状案に「治承年中(1177~81)…墓崎地頭宗明」と見え、医王寺の薬師如来像の背面に「藤原宗明」の承安2年(1172)の像造銘が残されている。後藤氏はこの宗明のときに鎌倉幕府御家人となった。 |
清明の曾孫・直明は、宝治元年(1247)の三浦氏の乱に際して、三浦氏に加担したとの嫌疑を受け所領没収の憂き目を味わった。身の潔白を訴えて、2男の氏明が将軍より旧領安堵の御教書を賜ることができた。氏明の代に元寇の役が起こり、氏明は一族の中野氏らとともに博多に出陣、戦後、功により神埼郡内に領地を賜った。 |
後藤英明 | 後藤正明 |
資明の子・英明は、将軍・足利義持から「肥前国杵島郡、塚崎長島両庄以下本職本領所之事」と安堵されていることから、長島庄を領していたことは疑いない。また、その御教書は渋川氏重の奉行によったもので、後藤氏が探題渋川氏に属していたことも知られる。 | 正長元年11月6日(1428年12月22日)に将軍・足利義教の命を奉じた九州探題兼肥前守護・渋川義俊から塚崎庄の地頭職の下知状を受けている。なお、父・英明は長島庄の地頭職を兼領しており、下知状には英明の跡を継ぐべき旨記載されていることから、長島庄の地頭職も同時に継いだとも考えられる。 |
後藤職明 | 後藤純明 |
塚崎庄の総地頭となり長島庄を兼領したとも伝わる。 |
長島庄潮見城主である橘姓・渋江公勢と第17代当主・後藤職明の娘の間に生まれる。後藤職明に子がなかったため、職明の養子となる。永正16年(1519年)、後に武雄鍋島氏の菩提寺となる円応寺を開く。大永7年(1527年)、実父・渋江公勢が毒水を飲んで死んだのを好機として、渋江氏を攻略し長島庄を自己の領地とした。 |
後藤貴明 | 後藤惟明 |
貴明は大村純前の庶子であったが、大村純忠が大村氏の跡継ぎになるに及び、天文14年(1545年)、後藤氏に養子に出された。貴明は純忠としばしば対立することとなる。 |
松浦隆信(道可)の次男として誕生。永禄3年(1560年)、武雄の領主であった後藤貴明の養子に迎えられる。当時、貴明に実子がいなかったことと、隆信が宗家の相神浦松浦氏と対立する中で後藤氏の支援を求めた政略的事情が、養子になった理由であった。 |