<藤原氏>北家 利仁流

F854:斎藤実盛  藤原魚名 ― 藤原利仁 ― 斎藤伊傳 ― 斎藤則光 ― 斎藤実盛 ― 鬼庭実良 F855:鬼庭実良

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鬼庭良直 茂庭綱元

 永正10年(1513年)、伊達郡小屋館(赤館)城主・鬼庭元実の子として生まれる。
 天文8年(1539年)、父・元実の隠居にともない家督を相続する。天文11年(1542年)に勃発した天文の乱においては父と共に伊達晴宗方に属して戦い、その功績を以て天文18年(1549年)には長井郡川井城主となり、所領を2,000石に加増された。
 永禄7年(1564年)に伊達輝宗が当主になると、側近に人材を求めていた輝宗は良直を評定役に抜擢する。これによって良直は遠藤基信と共に輝宗政権の中核を担うことになる。良直は輝宗の信任によく応え、天正初年には鬼庭氏に一族の家格が与えられた。天正3年(1575年)、嫡男・綱元に家督を譲って隠居し左月斎と号したが、天正5年(1577年)の輝宗五弟・政重の国分氏入嗣に際して事前の折衝にあたるなど、隠居後も引き続き輝宗の側近にあって政務に従事した。
 天正13年(1585年)10月、嫡男・政宗に家督を譲っていた輝宗が殺害されると、同年11月17日(西暦では翌1586年1月)には常陸の佐竹義重が、政宗を見放して伊達氏から離反した南奥の諸侯を糾合し二本松城を包囲中の伊達軍を攻撃するため安達郡へと攻め寄せた(人取橋の戦い)。この時、左月斎は政宗から指揮を任されて金色の采配を与えられた。しかし、兵力に劣る伊達軍はたちまち潰走し、佐竹軍に本陣への突入を許す状況となったため、左月斎は政宗を逃がすために、殿軍を引き受けて敵中に突入した。左月斎は高齢のために重い甲冑が着けられず、兜の代わりに黄綿の帽子を着けるという軽装であったが、最前線に踏み止まって力戦し、鬼庭隊は200余の首級を取ったという。この間に政宗は辛うじて本宮城に逃げ込むことができ、九死に一生を得たが、左月斎は岩城常隆の家臣・窪田十郎に討ち取られた。享年73。
 政宗は左月斎の隠居領分の知行を未亡人に与え、これを終身安堵する旨の朱印状を発給してその功に報いた。

 

 天正3年(1575年)、父の隠居にともない家督を相続し長井郡川井城主となる。天正13年11月(西暦では1586年1月)の人取橋の戦いでは殿軍を務め主君・伊達政宗を逃がすために奮戦するが、父・左月斎は討死にした。天正14年(1586年)には奉行職に任ぜられ、天正16年(1588年)には安達郡百目木城主となり所領を5,000石に加増された。
 天正18年(1590年)、奥州仕置にともなう知行再編により柴田郡沼辺城主となる。同年に発生した葛西大崎一揆を政宗が煽動していたことが露見すると、豊臣秀吉への弁明のために京に派遣され、以後秀吉との折衝役を務めることになる。
 天正19年(1591年)に政宗が岩出山に減転封されると、磐井郡赤荻城主となった。文禄元年(1592年)、文禄の役の際には肥前国名護屋に在って留守居役を務める。この時、秀吉が「鬼が庭にいるのは縁起が悪い」という理由で、姓を茂庭に改めさせたという。同年、長男・安元が病死したため、八幡氏に養子に出していた2男・良綱(良元)を呼び戻して跡取りとした。
 秀吉が綱元を気に入り直臣として召し出そうとしているとの噂を耳にした政宗は、次第に綱元を疑うようになり、ついに文禄4年(1595年)、綱元は政宗の命により良綱に家督を譲ることを迫られ隠居に追い込まれた。この時、綱元に与えられた隠居料はわずか100石に過ぎず、加えて隠居料以外の収入を得た場合には良綱が相続した茂庭氏の本領5,000石をも没収するという条件が付けられたため、憤激した綱元は伊達家から出奔した。
 この時、本多正信を介して徳川家康から誘いを受けたものの、政宗の奉公構により破談となる。綱元の境遇にいたく同情した家康は、中白鳥毛槍,虎皮の鞍覆,紫縮緬の手綱を贈り、また当座の資金として関八州の伝馬10疋の朱印状及び永楽銭200貫文を与えた。慶長2年(1597年)、赦免されて伊達家に復帰する。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、山形城主・最上義光への援軍第一陣として留守政景の指揮下に入る。綱元は政景の命により別働隊を率いて長井方面へと進攻し、9月25日に刈田郡湯原城を攻略すると、さらに二井宿峠を越え高畠城へと向けて兵を進めていたが、政宗の命令により、突如として屋代景頼らと共に福島表の兵力不足を補うために呼び戻され、10月6日の福島城攻めに参加した。
 同年末、隠居料として改めて栗原郡文字に1,100石を与えられる。慶長6年(1601年)9月に政宗が上洛する際には、すでに普請が始まっていた仙台城の留守居役を任され、さらには父・左月斎が伊達輝宗の代に務めていた評定役 に就任し、六人制の奉行職(古田重直,鈴木元信,山岡重長,津田景康,奥山兼清,大條実頼)の上に立ってこれを指導・監督した。翌慶長7年(1602年)には、政宗がかつて秀吉から賜った愛妾・香の前を下げ渡され、政宗と香の前との間に生まれた一女一男(津多・又四郎)は、綱元の子として育てられることになった。
 慶長9年(1604年)、政宗の5男・宗綱(卯松丸)が栗原郡岩ヶ崎城主になると、評定役の職に留まったままその後見役を命じられた。宗綱は仙台城下の綱元の屋敷で養育され、岩ヶ崎城下には城の管理にあたっていた綱元の家来達が住む町場が置かれた。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では政宗の長男・秀宗の陣に属し、翌慶長20年(1615年)2月、秀宗に伊予国宇和島10万石が与えられると、綱元は良綱と共に宇和島藩の統治機構の立ち上げに携わり、同年4月の大坂夏の陣には宇和島城から出陣した。
 元和4年(1618年)に宗綱が早世すると、その菩提を弔うため入道して了庵高吽と号し、高野山成就院に赴き3年間にわたって供養を行った。帰国後、政宗より宮城郡下愛子の栗生に館を拝領すると、以後はここに居住した。寛永13年(1636年)5月24日に政宗が死去すると政務を離れ、栗生の館を五郎八姫に譲って隠居領の文字に隠棲する。翌年には同地に洞泉院を創建し、その境内に政宗のために阿弥陀堂を、宗綱のために妙覚堂を、それぞれ建立した。
 政宗の四回忌にあたる寛永17年(1640年)5月24日死去。享年92。洞泉院の石仏を以て墓石とした。隠居領は3男の実元が相続した(着坐・文字茂庭氏)。

片倉喜多 茂庭良元

 天文7年(1538年)、伊達氏家臣・鬼庭良直の娘として生まれる。母は本沢真直の娘である直子。直子が生んだのは喜多のみで男児には恵まれず、天文18年(1549年)に良直の側室(牧野刑部の娘)が男児(後の鬼庭綱元)を出産すると、良直はこの男児を鬼庭家の嫡男とするため側室を正室にし、直子は離縁された。その後、直子は喜多を連れて片倉景重に再嫁し、弘治3年(1557年)には異父弟である片倉景綱を生んだ。喜多は文武両道に通じ、兵書を好み講じたという。また、弟の景綱も喜多の教化を強く受け育ったという。
 その後、伊達輝宗の命により、永禄10年(1567年)8月3日 に誕生した伊達政宗の乳母を拝命する。ただし喜多は独身であったことから実際は養育係(保姆)であったとみられる。喜多は政宗の養育にあたり、人格形成に強い影響を与えたとされる。また、天正3年(1575年)には弟の景綱も政宗の近侍となった。政宗成長後は、天正7年(1579年)に嫁いできた正室の愛姫付きとなったらしく、後に豊臣秀吉の人質となった愛姫と共に文禄3年(1594年)に京へ上洛し伏見の伊達屋敷にて奉公する。豊臣秀吉にも拝謁し、秀吉は喜多の才を愛し「少納言」と賞揚したという。
 ところがその後、政宗の勘気を蒙り、国許で蟄居を命ぜられる。以後は、弟・景綱が城代となっていた佐沼城外に一旦は籠居し、次いで亘理城外に移り、慶長7年(1602年)に景綱が白石城主を拝命されると、共に従って移住した。そして刈田郡蔵本邑勝坂に喜多庵を構え、余生を過ごした。
 慶長15年(1610年)7月、死去。享年72。墓は宮城県白石市の片倉家墓所。
 後に、愛姫の願いもあり伊達忠宗の命により、愛姫の従兄弟である田村宗顕の子・田村定広が喜多の名跡を嗣ぎ、片倉姓を名乗った。

 天正16年(1588年)に八幡宗実の養子となったが、文禄元年(1592年)に兄・安元が病死したため実家に呼び戻される。この年に鬼庭氏は豊臣秀吉の命により茂庭へと改姓しており、実家に戻った小源太も茂庭良綱と名乗った。文禄4年(1595年)に父・綱元が伊達政宗の命により強制的に隠居に追い込まれると、家督を相続して磐井郡赤荻城主となり5,000石を知行する。この命令に憤った綱元は伊達家から出奔している(2年後に帰参)。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは伊達家に帰参した父と共に湯原城を攻略するなどの武功を立て、慶長8年(1603年)には、古田重直に代わって志田郡松山城主となり、5,365石に加増される。以後、茂庭氏は幕末に至るまで松山を治めた。
 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では政宗の庶長子である伊達秀宗の陣に属して戦う。大坂冬の陣の後、秀宗に伊予国宇和島藩10万石が与えられたため、父・綱元と共に宇和島に赴いて藩政立ち上げのため準備作業を行い、翌年の4月の大坂夏の陣には宇和島城から出陣した。
 元和2年(1616年)に奉行職(他藩の家老に相当)を拝命すると、隠居までの35年間の長きにわたって務め上げた。寛永6年(1629年)に幕府より命じられた江戸城普請の際には普請奉行を務め、翌年には2,200石余を加増されている。寛永8年(1631年)、居城の松山城が平時の政庁としては不便であることから、将来の移転を見越した上で藩の許可を得て城の西向いの台地に下屋敷(上野館)を建設した。
 寛永18年(1641年)、長男・長元が鉄砲の暴発事故により失明すると、2男・茂行が病弱であることを理由に、茂行を差置いて白石城主・片倉重綱の養子となっていた3男・延元を呼び戻して跡取りとした。この良綱の決定に対して茂行は猛反発し父子間の対立は抜き差しならぬ状態に陥ったが、藩主・忠宗の裁定により、茂行を跡取りのいない弟・実元(父・綱元の隠居領である栗原郡文字を相続していた)の養子とし1,000石を分与することでこの一件は落着した。
 正保元年(1644年)、寛永総検地の結果を受けての知行地再編にともない10,000石に加増された。同年4月に第2代藩主・伊達忠宗の娘・鍋姫が柳川藩主・立花忠茂に嫁いだ際には古内重広と共に輿渡しの役を務めている。また、この年の末には良元に改名している。これはのちに第4代将軍となる徳川家綱の諱を避けたものである。
 慶安4年(1651年)9月、延元に家督を譲って隠居所の上野館に移り、承応3年(1654年)には入道して左月斎と号した。ただし、隠居後も忠宗から御用を命じられることがあり、その都度仙台に上って勤めを果たしていた。承応2年(1653年)に忠宗が弟の亘理城主・伊達宗実と揉めた際には、五郎八姫の求めに応じて調停にあたり事態を収拾した。
 万治2年(1658年)に伊達綱宗が家督を相続して第3代藩主となると、翌万治2年(1659年)4月には江戸に赴き松平信綱,酒井忠清ら幕閣を歴訪して若年の綱宗への力添えを依頼し、9月の綱宗初入部に際しては家臣団筆頭として太刀を献上した。寛文3年(1663年)8月3日死去。享年85。 

茂庭有元 茂庭升元

 兄3人は早世するか他家に養子に出ていたため跡取りとなり、文化13年(1816年)に藩主・伊達斉宗へ御目見し、文政2年(1823年)、父の死去にともない家督を相続して8代目松山領主となる。
 有元は家中子弟の教育に力を入れ、家督相続の年に武芸稽古園を開設したのを手始めに、文政12年(1829年)に郷学・大成館を創立し、大槻平泉門下に学んだ家臣の小島成章(東陵)を初代学頭に任命した。大成館には家中の10歳以上の男子全てを通わせ(ただし、遠方の者は12歳まで任意通学)、手習・読書を学ばせた。大成館からは養賢堂指南役を務めた小野寺鳳谷などを輩出している。
 またこの年、領内を流れる鳴瀬川の堤防の補強工事に着手した。鳴瀬川は文政年間だけでも4度氾濫し、特に文政7年(1824年)の洪水では甚大な被害が発生しており、治水事業は急務であった。工事の内容は総延長約3.3kmにわたって堤防に盛土を施して補強し、決壊しやすい地点には横土手を併設するというもので、有元は自ら馬を駆って現場を見回り、食糧や医薬品を配給して工事を督励した。しかし、工事の完成が目前に迫っていた天保2年(1831年)9月末に病に倒れ、同年10月20日死去。享年28。体調不良を押して見回りに赴いたことが死期を早めた原因であったという。家督は嫡男・小源太(徳元)が相続したが、徳元は家督相続からわずか4年後の天保6年(1835年)に12歳で病死し、その跡を2男の与七郎(升元)が継いだ。9代徳元,10代升元は共に幼少のため、白石城主・片倉宗景(有元義弟)の後見を受けている。

 天保6年(1835年)に9代目の兄・徳元が早世したため家督を相続し、10代目の松山領主となったが、幼少のため弘化2年(1845年)まで叔父の白石城主・片倉宗景が後見人として家政を監督した。この間に発生した天保の大飢饉では、藩当局による廻米強行と日本海側からの食糧買付失敗とが相まって松山領内においても多くの犠牲者が出ている。
 弘化4年(1847年)、藩主・伊達慶邦の名代として孝明天皇の即位式に祝賀使として上洛する。帰国後、升元は大任を無事果たせたことを感謝するため、上洛に随行した家臣の小野寺鳳谷(養賢堂指南役)に命じて、絵馬に茂庭氏の祖先・斎藤(鬼庭)実良が大蛇を退治する場面を描かせ、これを松山郷の総鎮守である羽黒権現に奉納した。この絵馬の図柄の意図は、文化露寇以来次々と迫り来る国難を大蛇に例え、升元がこれを払い除ける覚悟を示したものであると解釈されており、升元はこれを実現するため茂庭家中の訓練に力を注いだ。
 嘉永3年(1850年)、慶邦が領内巡見の途上で松山に滞在した際には、千石村の広岡台で演習を披露した。この時の演習の形式は、家臣を源・平二組に分け、升元と弟の勝三郎が各々を指揮して打毬を行うというものであった。安政元年(1854年)には、兵学者としても著名であった家老・小沢和英の献策を容れて砲術訓練所(南台講武所)を開設し、小沢・小野寺の指導の下で洋式調練を実施した。その成果は翌安政2年(1855年)に慶邦が杉山台において催した練兵式において披露され、升元は指揮ぶりを賞されて時服と佩刀の延寿国資などを拝領した。
 安政5年(1858年)5月26日死去。享年30。嫡男・敬元が家督を相続した。