F854:斎藤実盛 | 藤原魚名 ― 藤原利仁 ― 斎藤伊傳 ― 斎藤則光 ― 斎藤実盛 ― 鬼庭実良 | F855:鬼庭実良 | ● |
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鬼庭良直 | 茂庭綱元 |
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永正10年(1513年)、伊達郡小屋館(赤館)城主・鬼庭元実の子として生まれる。
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天正3年(1575年)、父の隠居にともない家督を相続し長井郡川井城主となる。天正13年11月(西暦では1586年1月)の人取橋の戦いでは殿軍を務め主君・伊達政宗を逃がすために奮戦するが、父・左月斎は討死にした。天正14年(1586年)には奉行職に任ぜられ、天正16年(1588年)には安達郡百目木城主となり所領を5,000石に加増された。 |
片倉喜多 | 茂庭良元 |
天文7年(1538年)、伊達氏家臣・鬼庭良直の娘として生まれる。母は本沢真直の娘である直子。直子が生んだのは喜多のみで男児には恵まれず、天文18年(1549年)に良直の側室(牧野刑部の娘)が男児(後の鬼庭綱元)を出産すると、良直はこの男児を鬼庭家の嫡男とするため側室を正室にし、直子は離縁された。その後、直子は喜多を連れて片倉景重に再嫁し、弘治3年(1557年)には異父弟である片倉景綱を生んだ。喜多は文武両道に通じ、兵書を好み講じたという。また、弟の景綱も喜多の教化を強く受け育ったという。 |
天正16年(1588年)に八幡宗実の養子となったが、文禄元年(1592年)に兄・安元が病死したため実家に呼び戻される。この年に鬼庭氏は豊臣秀吉の命により茂庭へと改姓しており、実家に戻った小源太も茂庭良綱と名乗った。文禄4年(1595年)に父・綱元が伊達政宗の命により強制的に隠居に追い込まれると、家督を相続して磐井郡赤荻城主となり5,000石を知行する。この命令に憤った綱元は伊達家から出奔している(2年後に帰参)。 |
茂庭有元 | 茂庭升元 |
兄3人は早世するか他家に養子に出ていたため跡取りとなり、文化13年(1816年)に藩主・伊達斉宗へ御目見し、文政2年(1823年)、父の死去にともない家督を相続して8代目松山領主となる。 |
天保6年(1835年)に9代目の兄・徳元が早世したため家督を相続し、10代目の松山領主となったが、幼少のため弘化2年(1845年)まで叔父の白石城主・片倉宗景が後見人として家政を監督した。この間に発生した天保の大飢饉では、藩当局による廻米強行と日本海側からの食糧買付失敗とが相まって松山領内においても多くの犠牲者が出ている。 |