<藤原氏>北家 魚名流 ― 山蔭流

F803:藤原山蔭  藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原魚名 ― 藤原鷲取 ― 藤原山蔭 ― 安達盛長 F804:安達盛長


リンク
安達盛長 安達景盛

 安達氏の祖で、源頼朝の流人時代からの側近である。『尊卑分脈』では小田野三郎兼広の子としているが、盛長以前の家系は系図によって異なり、その出自ははっきりしていない。足立遠元は年上の甥にあたる。盛長晩年の頃から安達の名字を称した。
 源頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍を妻としており、頼朝が伊豆の流人であった頃から仕える。妻がかつて宮中で女房を務めていたことから、藤原邦通を頼朝に推挙するなど京に知人が多く、京都の情勢を頼朝に伝えていたと言われている。また『曽我物語』によると、頼朝と北条政子の間を取り持ったのは盛長とされる。
 治承4年(1180年)8月の頼朝挙兵に従い、使者として各地の関東武士の糾合に活躍。石橋山の戦いの後、頼朝とともに安房国に逃れる。その際、下総国の大豪族である千葉常胤を説得して味方につけた。頼朝が再挙して、鎌倉に本拠を置き関東を治めると、元暦元年(1184年)の頃から上野国の奉行人となる。文治5年(1189年)、奥州合戦に従軍。頼朝の信頼が厚く、頼朝が私用で盛長の屋敷をしばしば訪れていることが記録されている。
 正治元年(1199年)1月の頼朝の死後、出家して蓮西と名乗る。同年4月、2代将軍・源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になり、幕政に参画。その年に三河国の守護となっている。同年秋に起こった梶原景時の弾劾(梶原景時の変)では強硬派の一人となり、翌年の正治2年4月26日(1200年6月9日)に死去。享年66。生涯官職に就くことはなかった。
 安達盛長の屋敷は現在の甘縄神社にあり、神社の前に「安達盛長邸址」の石碑が建っている。ここは、北条時頼の母・松下禅尼の実家であり、北条時宗の誕生の地でもある。また、霜月騒動の際に安達泰盛が攻められ、滅亡したところでもある。

 2代将軍・源頼家と景盛は不仲であったと見られ、頼家の代となって半年後の正治元年(1199年)7月から8月にかけて、景盛が頼家から愛妾を奪われ誅殺されようとしたところを、頼朝未亡人・政子に救われるという事件が『吾妻鏡』の景盛の記事初見に見られる。『吾妻鏡』にこの事件が特筆されている背景には、頼家の横暴を浮き立たせると共に、頼朝・政子以来の北条氏と安達氏の結びつき、景盛の母の実家比企氏を後ろ盾とした頼家の勢力からの安達氏の離反を合理化する意図があるものと考えられる。
 建仁3年(1203年)9月、比企能員の変で比企氏が滅ぼされると、頼家は将軍職を追われ、伊豆国の修禅寺に幽閉されたのち、翌年7月に北条氏の刺客によって暗殺された。景盛と同じ丹後内侍を母とする異父兄弟の島津忠久は、比企氏の縁戚として連座を受け、所領を没収されているが、景盛は連座せず、頼家に代わって擁立された千幡(源実朝)の元服式に名を連ねている。比企氏の縁戚でありながらそれを裏切った景盛に対する頼家の恨みは深く、幽閉直後の11月に母政子へ送った書状には、景盛の身柄を引き渡して処罰させるよう訴えている。
 3代将軍・源実朝の代には実朝・政子の信頼厚い側近として仕え、元久2年(1205年)の畠山重忠の乱では旧友であった重忠討伐の先陣を切って戦った。牧氏事件の後に新たに執権となった北条義時の邸で行われた平賀朝雅誅殺、宇都宮朝綱謀反の疑いを評議する席に加わっている。建暦3年(1213年)の和田合戦など、幕府創設以来の有力者が次々と滅ぼされる中で景盛は幕府政治を動かす主要な御家人の一員となる。建保6年(1218年)3月に実朝が右近衛少将に任じられると、実朝はまず景盛を御前に召して秋田城介への任官を伝えている。景盛の秋田城介任官の背景には、景盛の姉妹が源範頼に嫁いでおり、範頼の養父が藤原範季でその娘が順徳天皇の母となっていることや、実朝夫人の兄弟である坊門忠信との繋がりがあったと考えられる。所領に関しては和田合戦で和田義盛の所領であった武蔵国長井荘を拝領し、平安末期から武蔵方面に縁族を有していた安達氏は、秋田城介任官の頃から武蔵・上野・出羽方面に強固な基盤を築いた。
 翌建保7年(1219年)正月、実朝が暗殺されると、景盛はその死を悼んで出家し、大蓮房覚智と号して高野山に入り、実朝の菩提を弔うために金剛三昧院を建立して高野入道と称された。出家後も高野山に居ながら幕政に参与し、承久3年(1221年)の承久の乱に際しては幕府首脳部一員として最高方針の決定に加わり、尼将軍・政子が御家人たちに頼朝以来の恩顧を訴え、京方を討伐するよう命じた演説文を景盛が代読した。北条泰時を大将とする東海道軍に参加し、乱後には摂津国の守護となる。嘉禄元年(1225年)の政子の死後は高野山に籠もった。承久の乱後に3代執権となった北条泰時とは緊密な関係にあり、泰時の嫡子・時氏に娘(松下禅尼)を嫁がせ、生まれた外孫の経時、時頼が続けて執権となったことから、景盛は外祖父として幕府での権勢を強めた。
 宝治元年(1247年)、5代執権・北条時頼と有力御家人三浦氏の対立が激化すると、業を煮やした景盛は老齢の身をおして高野山を出て鎌倉に下った。景盛は三浦打倒の強硬派であり、吾妻鏡によれば「三浦一族、傍若無人の勢い」と憤り、三浦氏の風下に甘んじる子の義景や孫の泰盛の不甲斐なさを厳しく叱責した。時頼は三浦氏との和解を模索しており、景盛は連日時頼と談合を繰り返していたが、時頼が三浦氏殲滅の舵切りをすることはなく、自分の思う通りにいかない景盛は業を煮やして息子や孫に八つ当たりをしたという。景盛は三浦氏との妥協に傾きがちだった時頼を説得して、一族と共に三浦氏への挑発行動を取るなどあらゆる手段を尽くして宝治合戦に持ち込み、三浦一族500余名を滅亡に追い込んだ。この宝治合戦によって北条氏は幕府創設以来の最大勢力三浦氏を排除して他の豪族に対する優位を確立し、同時に同盟者としての安達氏の地位も定まった。幕府内における安達氏の地位を確かなものとした景盛は、宝治合戦の翌年の宝治2年(1248年)5月18日、高野山で没した。 

安達義景 松下禅尼

 義景の「義」の一字は鎌倉幕府第2代執権の北条義時からの拝領と思われ、義時晩年の頃に元服したと考えられている。義時亡き後は、北条泰時(義時の子)から経時と時頼3代の執権を支え、評定衆の一人として重用された。幕府内では北条氏,三浦氏に次ぐ地位にあり、第4代将軍・藤原頼経にも親しく仕え、将軍御所の和歌会などに加わっている。この頃の将軍家・北条,三浦氏,安達氏の関係は微妙であり、三浦氏は親将軍派、反得宗の立場であるのに対し、義景は北条氏縁戚として執権政治を支える立場にあった。
 父・景盛が出家してから17年後、将軍頼経が上洛した年に、義景は29歳で秋田城介を継承する。仁治3年(1242年)、執権・泰時の命を受けて後嵯峨天皇の擁立工作を行ない、新帝推挙の使節となった。寛元4年(1246年)の宮騒動で執権・北条時頼と図って反得宗派の北条光時らの追放に関与した。将軍家を擁する三浦氏と執権・北条時頼の対立は、執権北条氏外戚の地位をめぐる三浦泰村と義景の覇権争いでもあり、宝治元年(1247年)、三浦氏との対立に業を煮やして鎌倉に戻った父景盛から厳しく叱咤されている。宝治合戦では嫡子・泰盛と共に先陣を切って戦い、三浦氏を滅亡に追い込んだ。
 時頼の得宗専制体制に尽力した義景は格別の地位を保ち、時頼の嫡子・時宗は義景の姉妹である松下禅尼の邸で誕生している。義景の正室は北条時房の娘で、その妻との間に産まれた娘(覚山尼)は時宗の正室となる。また、長井氏,二階堂氏,武藤氏など有力御家人との間にも幅広い縁戚関係を築いた。建長5年(1253年)5月に出家し、翌6月に44歳で死去。
 父・景盛と義景が築いた安達氏の地位は、子の泰盛の代に全盛を迎え、時宗政権下で権勢を振るうこととなる。 

 元仁元年(1224年)、六波羅探題となった北条時氏に従って上洛。のちに鎌倉に戻り、寛喜2年(1230年)の時氏の死後、出家して実家の甘縄邸に住んだ。『徒然草』184段に、障子の切り貼りを手づからしてみせて時頼に倹約の心を伝えたという逸話がみえ、昭和期の国語教科書などにも取り上げられた。
 時氏の早世後は息子の経時や時頼の養育を務めた。第8代執権・北条時宗は松下禅尼の甘縄の邸で誕生している。没年は不明だが、弘安5年(1282年)10月以前には死去している。

安達頼景 覚海尼

 頼景の2歳年下の弟・泰盛が、当初から安達氏の嫡男が継承する「九郎」を名乗っていることから、頼景は庶兄であったと思われる。建長4年(1252年)、宗尊親王の鎌倉入りを朝廷に伝える使者を務め、翌建長5年(1253年)に25歳で泰盛と共に幕府の引付衆となる。この年の6月に父・義景が死去している。正嘉(1257年)には丹後守となり、安達氏の家督である秋田城介の継承候補からは外されている。
 弘長3年(1263年)、宗尊親王と深い繋がりがあり、後藤基政と共に六波羅探題評定衆に転出。同年11月の北条時頼の死去に伴い出家。文永9年(1272年)の二月騒動に連座して関東に召し出され、所領二ヵ所を没収された。
 弘安8年(1285年)の霜月騒動で安達一族が滅ぼされたが、頼景は泰盛に属さなかったのか難を逃れている。正応5年(1292年)、64歳で死去している。

 鎌倉幕府9代執権・北条貞時の側室。北条氏最後の得宗・北条高時の母。子は他に泰家など。覚海円成は出家後の法名で、実名は不明。覚海尼,大方殿とも。鎌倉の山内に住んでいたことから山内禅尼とも呼ばれる。
 弘安8年(1285年)の霜月騒動で、14歳の執権・貞時を擁する平頼綱によって安達一族の多くが滅ぼされた。頼綱が貞時によって誅された後に、安達一族の幕府復帰が認められ、庶流であった安達泰宗の娘である大方殿が貞時に側室として嫁ぎ、3男で嫡子となった高時と4男・泰家を産む。なお貞時の正室は北条宗政の娘(貞時の従姉妹)だったが、子は産まなかったか、もしくは産んだとしても夭折している。
 応長元年(1311年)に貞時が死去すると、9歳の高時が北条得宗家の家督を継いで14歳で執権となる。貞時の遺言で幼主・高時の後見を託された内管領の長崎円喜と、安達氏の一族で娘を高時に嫁がせた安達時顕が幕政の実権を握った。
 元亨元年(1321年)、夢窓疎石を再三にわたる招請で鎌倉に呼び寄せる。元亨3年(1323年)、貞時の13回忌供養で建長寺に華厳塔を建立。
 正中2年(1326年)3月13日、高時が病のため24歳で出家し執権を辞任したことにより、その後継を巡って内管領・長崎氏と外戚・安達氏の抗争である嘉暦の騒動が起こる。長崎氏は前年12月に高時の妾で御内人・五大院宗繁の妹が産んだ長子・太郎邦時を後継に推したが、覚海円成と安達一門は邦時誕生の際に御産所にも高時の前にも現れず、あきらかに態度で不快を示したという。安達氏側は高時の弟で覚海円成の子泰家を後継執権として推していたが、長崎氏の推挙で北条氏庶流の金沢貞顕が中継ぎとして執権になると、覚海円成は憤って泰家を出家させ、覚海円成や泰家が貞顕を殺そうとしているという風聞が流れたため、恐れをなした貞顕は出家して執権を辞任。覚海円成の怒りを恐れて北条一門になり手がない中、北条守時が後任となり、これが最後の北条氏執権となる。
 元徳4年(1332年)4月26日、東慶寺に梵鐘を建立。のちに梵鐘は伊豆国に移され、静岡県伊豆の国市の本立寺に所蔵されている。
 元弘3年(1333年) 5月22日、鎌倉幕府滅亡により、高時以下北条一門が自害した後、覚海円成は一族の女性たちと共に安堵された伊豆国韮山の地に移り住み、尼寺の円成寺を建立して一門を供養した。足利直義が円成寺に所領を寄進して援助しており、足利兄弟が帰依していた夢窓疎石を介して行われたと見られる。康永4年/興国6年(1345年)8月12日、死去。 

安達泰盛 安達盛宗

 鎌倉幕府第8代執権・北条時宗を外戚として支え、幕府の重職を歴任する。元寇,御家人の零細化,北条氏による得宗専制体制など、御家人制度の根幹が変質していく中で、その立て直しを図り、時宗死後に弘安徳政と呼ばれる幕政改革を行うが、内管領・平頼綱との対立により、霜月騒動で一族と共に滅ぼされた。元寇にあたって御恩奉行を務め、自邸で竹崎季長の訴えを聞く姿が『蒙古襲来絵詞』に描かれている。
 寛喜3年(1231年)、安達義景の3男として誕生。母は甲斐源氏の一族である伴野(小笠原)時長の娘。泰盛は当初から安達氏嫡子の呼び名である「九郎」を名乗っており、安達家の跡継ぎとして周知されていた。
 泰盛17歳の宝治元年(1247年)、有力御家人・三浦氏と執権・北条時頼の対立による宝治合戦が起こり、泰盛は安達家の命運を賭けた戦いの先鋒として戦った。三浦氏の滅亡により、執権北条氏の外戚として時頼政権を支える安達氏の地位が確立した。
 建長5年(1253年)6月に義景が死去し、泰盛は23歳で家督を継いで秋田城介に任ずる。父の後を受けて一番引付衆となり、康元元年(1256年)には5番引付頭人、同時に評定衆となって執権時頼を補佐した。父の死の前年に産まれた異母妹(覚山尼)を猶子として養育し、弘長元年(1261年)に時宗に嫁がせて北条得宗家との関係を強固なものとした。弘長3年(1263年)に時頼が没すると、泰盛は時宗が成人するまでの中継ぎとして執権となった北条政村や北条実時と共に得宗時宗を支え、幕政を主導する中枢の一人となる。文永元年(1264年)から同3年まで実時と共に越訴頭人を務める。
 文永3年(1266年)6月、連署時宗邸で執権政村・実時・泰盛による「深秘の沙汰」が行われ、謀反を理由に将軍・宗尊親王の帰洛が定められた。代わって3歳の惟康親王が新将軍として鎌倉へ迎えられ、幼少の親王を将軍につけることで時宗の権力を固める意図であった。泰盛は将軍への救心性を持ちながらも時宗を支持したと見られる。文永5年(1268年)、幕府が蒙古襲来の危機を迎える中、18歳で時宗が執権となる。
 泰盛は文永11年(1274年)の文永の役後に御恩奉行となり、将軍・惟康親王の安堵の実務を代行した。得宗家との親密な関係の一方、将軍・宗尊親王,惟康親王との関係も密接であり、将軍の親衛軍、側近の名簿には必ず泰盛の名が見える。
 時宗は文永9年(1272年)2月の二月騒動で同族内の対抗勢力を排除して得宗独裁の強化を図り、安達家でも泰盛の庶兄の安達頼景が所領2ヶ所没収を命じられた。文永10年(1273年)に宿老・政村が死去、実時もこの頃に引退・死去しており、文永年間以前まで見られた北条一門は寄合衆のメンバーから消え、得宗家被官である御内人が台頭してくる。建治年間の寄合衆メンバーは御内人の平頼綱,諏訪真性、文官の三善康有などで御家人は泰盛のみであった。時宗政権を支えた二本柱は頼綱を筆頭とする得宗被官と、外戚で外様御家人の安達氏を代表する泰盛であったが、御内人と外様御家人という両者が時宗と結ぶ関係のあり方は対照的で、両者の対立は必然であった。建治3年(1277年)12月、時宗の嫡子・貞時の元服に際し、泰盛は烏帽子を持参する役を務めて、その後見となる。弘安4年(1281年)の弘安の役後、弘安5年(1282年)、52歳の泰盛は秋田城介を嫡子宗景に譲り、代わって陸奥守に任じられる。陸奥守は幕府初期の大江広元,足利義氏を除いて北条氏のみが独占してきた官途であり、泰盛の地位上昇と共に安達一族が引付衆、評定衆に進出し、北条一門と肩を並べるほどの勢力となっていた。
 弘安7年(1284年)4月、元寇後の恩賞請求や訴訟が殺到し、再度の蒙古襲来の可能性など諸問題が山積する中で時宗が死去すると、14歳の嫡子・貞時が第9代・執権に就任した。時宗に追随して出家した泰盛は法名覚真と称し、幕政を主導する立場となると、後に弘安徳政と呼ばれる幕政改革を行い、「新御式目」と呼ばれる新たな法令を矢継ぎ早に発布した(弘安徳政)。その規模と時期から見て、時宗存命中からその了承の元に準備されていたものと見られる。将軍権威の発揚を図り、引付衆などの吏員には職務の厳正と清廉を求めた。得宗には実務運営上の倫理を求め、御内人の幕政への介入を抑制すること、伊勢神宮や宇佐神宮など有力寺社領の回復に務めること、朝廷の徳政推進の支援などが行われた。これによって社会不安の沈静化に務めると共に、本所一円地住人の御家人化を進めて幕府の基盤の拡大と安定を図り、幕府の影響力を寺社・朝廷にまで広げて幕府主導による政治運営の強化、国政改革を行うとしたと考えられている。ほぼ同時期に京の朝廷でも亀山上皇による朝廷内改革・徳政が行われており、泰盛と上皇の連動性が指摘されている。だが、御内人の抑制ではその代表である内管領・平頼綱と対立し、性急な寺社領保護によって寺社への還付を命じられた一部御家人や公家の反感を招き、泰盛は次第に政治的に孤立していくことになる。
 翌弘安8年(1285年)、頼綱は泰盛の子・宗景が源姓を称したことをもって将軍になる野心ありと執権・貞時に讒言し、泰盛討伐の命を得た。11月17日、この日の午前中に松谷の別荘に居た泰盛は、周辺が騒がしくなったことに気付き、昼の12時頃、塔ノ辻にある出仕用の屋形に出向き、貞時邸に出仕した所を待ち構えていた御内人らの襲撃を受け、死者30名、負傷者10名に及んだ。これをきっかけに大きな衝突が起こり、将軍御所は延焼し午後4時頃に合戦は得宗方の先制攻撃を受けた安達方の敗北に帰し、泰盛とその一族500名余りが自害して果てた。頼綱方の追撃は安達氏の基盤であった上野・武蔵の他、騒動は全国に波及して泰盛派の御家人の多くが殺害された。
 この霜月騒動と呼ばれる内乱の結果、平頼綱が実権を握り、泰盛を支持した幕府草創以来の有力御家人の多くが没落して得宗被官の長崎氏や文官の二階堂氏,長井氏が政治の中心となる。頼綱は霜月騒動の7年後、平禅門の乱で貞時によって滅ぼされた。霜月騒動で失脚した御家人たちも徐々に復帰し、安達一族も泰盛の弟・顕盛の孫である安達時顕が安達家の家督を継承している。頼綱滅亡の翌年には騒動の罹災者の復権が進んだが、時顕が文保元年(1317年)に霜月騒動で討たれた父・宗顕の33回忌供養を行った際の記録には、その頃まで泰盛の供養がタブーであったことが記されている。

 鎌倉幕府第8代執権・北条時宗より偏諱を受けて盛宗と名乗る。建治3年(1277年)6月19日、検非違使に任官されて武家の正装白襖(直垂)で出仕する。
 文永の役の後、再度の蒙古襲来に備えて建治2年(1276年)に父・泰盛が守護となった肥後国の守護代として盛宗が九州に下向し、弘安4年(1281年)6月の弘安の役で現地の武士達の指揮官を務め、弘安8年(1285年)正月に泰盛による弘安改革で戦後処理のために設置された「鎮西特殊合議訴訟機関」(鎮西探題の前身)での実務にあたった。
 同年11月17日、泰盛と内管領・平頼綱の対立による霜月騒動で安達一族が滅ぼされると、北九州にいた盛宗は少弐景資と共に岩門城に籠もり、頼綱方である景資の兄・少弐経資の軍勢と戦って敗死した(岩門合戦)。
 蒙古襲来絵詞には、季長の軍功報告を受ける盛宗の姿が描かれている。

安達千代野 安達時盛

 北条顕時の後室。法名は如大禅師無着。名前は『浅羽本北条氏系図』による。千代能とも。
 父・泰盛と安達一族は霜月騒動で滅ぼされ、夫である顕時は騒動に連座して失脚し、下野国に蟄居の身となる。千代野は出家して無学祖元の弟子となり、法名無着と号す。
 『仏光国師語録』によれば、「越州太守夫人」(千代野)が無学祖元に対して釈迦像と楞厳経を求めた記録がある。京都松木嶋に資寿院を創建した。南宋時代の初め、無着妙総という尼僧が資寿寺を建てた故事があり、無着や資寿院の名前はこれに因んだとみなされる。
 顕時と千代野の娘(釈迦堂殿)は足利貞氏の正室となり、嫡子・高義を産んでいる。
 鎌倉の海蔵寺の側に、出家した千代野が悟りを開いたという「底脱の井戸」がある。

 仁治2年(1241年)、安達義景の子として生まれる。兄の泰盛と共に幕政に参加し、弘長3年(1263年)に執権・北条時頼が死去すると、炉忍(後に道供)と号して出家した。
 時頼没後も兄と共に幕政に参与し、文永4年(1267年)に評定衆に任じられる。ところが建治2年(1276年)9月、突如として寿福寺に入って隠棲した。このため、時盛の所領は幕府によってことごとく収公されている。また、兄の泰盛から義絶されているため、恐らくは何らかの政治的問題から隠棲に追い込まれたのではないかと推測される。
 弘安8年(1285年)6月10日、隠棲後に移った高野山において死去した。享年45。兄の泰盛が霜月騒動で滅ぶ5ヶ月前のことである。時盛の跡は時長,師頼と続く。 

安達顕盛 安達時顕

 寛元3年(1245年)、安達義景の6男として生まれる。兄の泰盛や時盛と共に幕政に参与し、文永6年(1269年)、25歳で引付衆、文永11年(1274年)3月22日に従五位下・加賀守に叙位・任官する。弘安元年(1278年)には評定衆に任じられるが、弘安3年(1280年)2月8日に死去した。享年36。跡を子の宗顕が継いだ。
 顕盛の子・宗顕は霜月騒動で討たれ、一族の多くが滅ぼされたが、宗顕の子・時顕は幕政に復帰し、安達氏家督である秋田城介を継承した。また、時顕の娘は北条高時に嫁いでいる。

 

 弘安8年(1285年)の霜月騒動で父・宗顕をはじめ一族の多くが滅ぼされたが、幼子であった時顕は乳母に抱かれて難を逃れた。その後は政村流北条氏の庇護下にあったようであり、徳治2年(1307年)までにはその当主・北条時村を烏帽子親に元服し「時」の字を賜って時顕を名乗ったとされている。永仁元年(1293年)の平禅門の乱で平頼綱が滅ぼされた後に安達一族の復帰が認められると、やがて、時顕が安達氏家督である秋田城介を継承したが、これを継承できる可能性を持つ血統が幾つかある中で時顕が選ばれたのも政村流北条氏、すなわちこの当時政界の中枢にあった北条時村の影響によるものとされている。史料で確認できるところでは、時顕の初見は『一代要記』徳治2年(1307年)1月22日条であり、翌徳治3年(のち延慶元年・1308年)の段階では秋田城介であったことが確実である。
 応長元年(1311年)、9代執権・北条貞時の死去にあたり、時顕は貞時から長崎円喜と共に9歳の嫡子高時の後見を託された。正和2年(1313年)、五番引付頭人に就任。文保元年(1317年)に霜月騒動で討たれた父宗顕の33回忌供養を行う。正和5年(1316年)、14歳で執権職を継いだ高時に娘を嫁がせて北条得宗家の外戚となり、また時顕の嫡子高景は長崎円喜の娘を妻に迎え、内管領とも縁戚関係を結んで権勢を強めた。
 元亨4年(1324年)9月、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、関与した公家らが六波羅探題によって処罰され、弁明のために後醍醐天皇から鎌倉に派遣された万里小路宣房を長崎円喜と共に詰問し、困惑する宣房が時顕を恐れる様が嘲弄を招いたという。正中3年(1326年)3月、高時の出家に従って時顕も出家し法名の延明を称する。高時の後継者を巡り、高時の妾で御内人の娘が産んだ太郎邦時を推す長崎氏に対し、高時の舅である時顕と高時の母の覚海円成ら安達一族が反対して高時の同母弟泰家を推す対立が起こり、北条一門がそれに巻き込まれる事態となっているが、最終的には邦時が嫡子の扱いとなっている(嘉暦の騒動)。翌嘉暦2年(1327年)に四番引付頭人に移るも、元徳2年(1330年)に辞任。
 元弘3年/正慶2年(1333年)の幕府滅亡に際し、東勝寺で北条一門と共に自害した(東勝寺合戦)。 

安達高景 覚山尼

 安達氏最後の秋田城介。元服時に鎌倉幕府第14代執権・北条高時より偏諱を受けて高景と名乗る。尚、安達氏嫡流の「秋田城介家」は景盛―義景―泰盛―宗景と続き、「○盛」と「○景」が交互に名付けられていることが窺え、高景の場合も「○景」という名付け方であることから、元服した後に宗景の後継となることが決まった父・時顕とは違って、元服の段階で既に秋田城介の継承者となることが決定していたとする見解もある。また、姉妹が高時の正室であり、内管領・長崎円喜の娘を妻として父・時顕と共に得宗家の外戚として権勢を強めた。元徳3年(1331年)、五番引付頭人に就任。同年、後醍醐天皇の退位を促す使者として二階堂貞藤とともに上洛している。
 『太平記』によれば、元弘3年/正慶2年(1333年)5月の鎌倉幕府滅亡(東勝寺合戦)に際し、東勝寺で高時ら北条一門と共に自害したとされている。
 鎌倉幕府滅亡後に「高景」なる者が、名越流北条氏の北条時如と共に北条氏の所領があった奥州へ逃れ、御内人の曽我道性に匿われて同年暮れに奥州北部の大光寺城に籠もって反乱の兵を挙げたという記録が残っており、この「高景」を本項の安達高景とする説もある。

 出生の翌年に父・義景が死去したため、21歳離れた異母兄・泰盛の猶子として養育された。鎌倉甘縄安達邸で育ち、弘長元年(1261年)に10歳で北条得宗家の嫡子で11歳の時宗に嫁ぎ、安達氏と得宗家の縁を結ぶ。夫婦仲は、時宗の帰依した無学祖元の証言などから仲睦まかったとされ、文永8年(1271年)12月、20歳で嫡男・貞時を出産。日蓮の回想によれば、時宗は嫡子誕生の喜びから日蓮を恩赦して死一等を減じ、流罪に減罪したと言われる。また、時宗の影響で禅も行っている。建治3年(1277年)には流産をしている。
 弘安7年(1284年)4月、病床にあった時宗は無学祖元を導師として禅興寺で落髪したとき、共に落髪付衣し、覚山志道大姉と安名した。 時宗は34歳で死去し、時宗の死後、息子・貞時が執権に就任、兄・泰盛が幕政を主導。晩年は仏事につとめ、父・義景,兄・泰盛の後を受けて遠江国笠原荘を領している。弘安8年(1285年)に、内管領・平頼綱の讒言を信じた執権・貞時が、泰盛を始めとする安達氏一族を誅殺する(霜月騒動)。この事件の際、安達一族の子供達を庇護したと見られ、その後の安達氏の勢力回復には覚山尼の存在が大きかったと思われる。同年には貞時の承認を得て鎌倉松ヶ岡に東慶寺を建立。さらに夫の暴力などに苦しむ女性を救済する政策を行なったと言われ、直接史料は無いが、これが元で東慶寺は縁切寺(駆込寺、駆入寺とも)となったと言われている。55歳で死去。