<藤原氏>北家 御堂流

F734:花山院家忠  藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原忠平 ― 藤原師輔 ― 藤原道長 ― 花山院家忠 ― 青山信賢 F735:青山信賢

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青山忠門 青山忠成

 青山氏の出身はもと上野国で、忠門の時に近江から三河へ移り、額田郡百々村を領して松平広忠に仕えたという。第二次小豆坂の戦いにも参戦した。広忠死後は一時、今川義元の麾下に入るが桶狭間の戦いでは広忠の子・元康(のちの徳川家康)の寄騎となり、義元死後は元康に帰属する。1563年(永禄6年)、三河一向一揆の際も元康側につき、岡崎城を守備した。1571年(元亀2年)、武田氏の三河侵攻に際しては良く防戦したが、その時の傷が元で死亡したという説と、1575年(天正3年)、武田氏との戦いで討ち死にしたという説がある。1571年説では享年54、1575年説では享年65。
 子の忠成も徳川家に仕え、江戸期を通じて譜代大名として列せられた。

 忠成は若年期から家康に近侍していたが、元亀2年(1572年)、父が武田信玄との戦いで討死したために家督を継いだ。家康の信任は厚く、天正13年(1585年)には家康の3男・秀忠の傅役に命じられた。天正16年(1588年)には秀忠に従って上洛、豊臣秀吉によって従五位下常陸介に叙任されている。さらに天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると江戸町奉行に任命され、5,000石(文禄元年(1593年)には2,000石加増)の領地を与えられた。また、原宿村を中心に赤坂の一部から上渋谷村にかけての広い屋敷地を賜っており、現在の東京都青山の地名は、屋敷地の一部であったことが由来といわれている。なお一時期、青山氏が改易された際に屋敷地も没収され、広大な土地には毛利氏の別邸など大名屋敷が林立することとなったが、後に大名として復帰した際にも以前ほどではないものの小大名とは思えないほど広大な敷地を有していた。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては秀忠の軍に従軍し遅参したものの、翌慶長6年(1601年)に常陸江戸崎1万5,000石の所領を得ている。さらに江戸奉行・関東総奉行を兼任し、江戸開府後も本多正信,内藤清成と共に老中として幕政において重きをなした。慶長11年(1606年)、内藤と共に一時蟄居を命ぜられているがすぐに赦免されている。同年1万石を加増され、所領は2万5,000石となった。
 慶長18年(1613年)、63歳で死去し、跡を次男の忠俊が継いだ。

青山成重

 服部正信(平蔵)の次男。元亀2年(1571年)、母の従兄の青山忠重が戦死し、子がなかったため、主君・徳川家康の命で青山氏を継ぐ。徳川秀忠の後見役となり、天正18年(1590年)の家康関東入封の際に下総国香取郡に3000石を与えられた。慶長6年(1601年)に2000石を加増、さらに慶長8年(1603年)12月25日に下総内において5000石を加増され、石高が1万石に達したため下総飯田藩を立藩した。
 慶長13年(1608年)、老中に就任するが、大久保長安の子・成国を養子にしたことから、慶長18年(1613年)の大久保長安事件に連座し、罷免・改易される。7000石を減知され、飯田の地に蟄居した。大坂の陣では本多正信に供奉を懇請して武功を挙げて挽回を図ろうとしていたが、結局赦免されることのないまま死去した。
 3000石は成重が赦免されず死去したため、収公となったが、改めて嫡男の成次に新知1000石が与えられ、子孫は旗本として存続する。成次の子・成政の代に1200石となり、4代あとの成存は勘定奉行になっている。