F433:藤原頼祐 | 藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原内麻呂 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良門 ― 藤原雅正 ― 藤原頼祐 ― 朝比奈国俊 | F434:朝比奈国俊 | ● |
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朝比奈泰煕 | 朝比奈泰能 |
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朝比奈吉俊の子として誕生。駿河国の今川氏に従い、文明年間(1469~86年)に今川義忠の命を受け、遠江佐野郡に掛川城を築城した。 |
今川氏の重臣。遠江国掛川城主。明応6年(1497年)、朝比奈泰煕の子として誕生。永正9年(1512年)、父の死去により家督を継ぐが、若年のため叔父・朝比奈泰以の後見を受ける。永正15年(1518年)6月、寿桂尼の兄・中御門宣秀の娘を娶ることで主君・今川氏の姻戚となった。泰能は氏親,氏輝,義元の今川氏3代に渡って仕えた宿老であり、大永6年(1526年)に制定された「今川仮名目録」には、三浦氏満と並ぶ重臣として記され、今川氏における外交文書などでは、太原雪斎と共に名を連ねている。 |
朝比奈泰朝 | 朝比奈親徳 |
生年は一説に天文7年(1538年)とされる。生母について明記した史料はないが、父・泰能の正室は中御門宣秀の娘で、寿桂尼(今川義元の母)の姪にあたる。こうした縁から父と共に山科言継らとの交流も深く、弘治2年(1556年)には言継から「梶井宮之御筆百人一首」を与えられている。 |
『寛永伝』では実名を元長と記すが、「元長」は彼の法名及び彼が開基となった菩提寺(元長寺)のことで、実名ではない。また、異説として、元長を息子の信置の初名とするものもある。父とされる朝比奈俊永の事績も不明で、親徳が初代当主であったとする見方もある。 |
朝比奈信置 | 朝比奈信良 |
天文17年(1548年)の小豆坂の戦いでは先陣を務め、手柄を立てた。また、『甲陽軍鑑』によれば、山本勘助を義元に推挙した人物とされる。 |
諱の「信」は甲斐武田氏の偏諱。天正3年(1575年)朝比奈氏の嫡流・朝比奈泰茂より名跡を譲られる。天正8年(1580年)父の信置と共に駿河持船城に在番。天正9年(1581年)父より家督を継ぎ、右兵衛大夫を称した。天正10年(1582年)2月、武田征伐が始まると、2月に信良は持船城より敗走したが、武田家が滅亡すると織田信長により信濃国諏訪において処刑された。子の良保は信良が没した年に生まれ、はじめ跡部勝資の弟の昌秀の養子となり、のち勝資の孫娘(和田信業娘)を娶った。
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朝比奈宗利 | 朝比奈泰勝 |
父と同じく今川氏・武田氏に仕える。天正8年(1580年)駿河に侵攻する徳川家康勢と戦って兄の元永とともに武功があった。天正10年(1582年)甲州征伐の際には持船城に在城し、父と長兄の信良が死去したが、宗利は家康の計らいによって難を逃れた。 |
戦国大名家としての今川氏が滅亡後も氏真の下にあったが、天正3年(1575年)、長篠の戦いが起きると氏真の使者として徳川陣中を見舞った際に、甲斐国の武田勝頼の武将・内藤昌豊を討ち取っている。これに感心した家康は氏真から泰勝をもらい受けたという。 |
朝比奈氏泰 | 朝比奈元智 |
永禄年間、浜名湖西岸に位置する遠江宇津山城主として、三河国・遠江国の国境付近を守備し、特に三河国東部八名郡に睨みを効かせていた。 |
朝比奈時茂の3男とされる。今川義元に仕え、義元から篤い信頼を寄せられ、偏諱を受けて元智と名乗る。 |