<藤原氏>北家 良門流

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朝比奈泰煕 朝比奈泰能

 朝比奈吉俊の子として誕生。駿河国の今川氏に従い、文明年間(1469~86年)に今川義忠の命を受け、遠江佐野郡に掛川城を築城した。
 連歌師の宗長と親しく、永正8年正月21日に宗長が泰煕の三七忌(21日目の法要)を行っていることが『宗長手記』に記されているため、遡って同年の元日に亡くなったことが判明する。
 泰煕の娘が今川氏親の側室となり、今川義元を生んだとも指摘されている。
 今川氏の家臣とされる福島正成を讒言し、義忠の嫡男・氏親と仲違いさせ、正成を死に至らしめたという説がある(ただし、正成を後世の創作による人物とする説もある)。 

今川氏の重臣。遠江国掛川城主。明応6年(1497年)、朝比奈泰煕の子として誕生。永正9年(1512年)、父の死去により家督を継ぐが、若年のため叔父・朝比奈泰以の後見を受ける。永正15年(1518年)6月、寿桂尼の兄・中御門宣秀の娘を娶ることで主君・今川氏の姻戚となった。泰能は氏親,氏輝,義元の今川氏3代に渡って仕えた宿老であり、大永6年(1526年)に制定された「今川仮名目録」には、三浦氏満と並ぶ重臣として記され、今川氏における外交文書などでは、太原雪斎と共に名を連ねている。
 遠江の要衝・掛川城を居城として今川義元の西方(遠江・三河)への戦略を常に助ける働きを示すが、その一環として分家の泰長・元智の兄弟などに浜名湖西岸の宇津山城を託している。自らも天文17年(1548年)の小豆坂の戦いでは、総大将の太原雪斎を補佐する副将として出陣した。天文18年(1549年)には、岡崎城主・松平広忠が横死すると、岡崎城接収の任にも当たっている。
 弘治3年(1557年)8月30日に病死。なお、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで尾張国鷲津砦を攻撃した将の名が「朝比奈泰能」となっている史料もあるが、実際は後を継いだ嫡子・泰朝のことで、親子を誤ったものと見られているが、一説に雪斎に続く重臣の死に今川軍が動揺する事を恐れて3年間、喪を伏していた可能性がある。雪斎に続く補佐役であった泰能の死は義元にとって痛手であった。義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れて討ち死にするのはこの3年後である。
 一説に泰能は通称を弥太郎といい、武田信玄による駿府占領まで存命であったという。泰能は急追する武田軍に突入して主君氏真や城中の女房衆の脱出の時間を稼ぎ、自らは市中で自害したとする。その墓が死没の地とする静岡市の大正寺に残る。或いは同族の誰かと伝承が混同したものか。

朝比奈泰朝 朝比奈親徳

 生年は一説に天文7年(1538年)とされる。生母について明記した史料はないが、父・泰能の正室は中御門宣秀の娘で、寿桂尼(今川義元の母)の姪にあたる。こうした縁から父と共に山科言継らとの交流も深く、弘治2年(1556年)には言継から「梶井宮之御筆百人一首」を与えられている。
 父の死後に家督を継承し、備中守を称する。永禄元年(1558年)には駿東郡の霊山寺を再興している。永禄3年(1560年)には、今川義元の尾張国侵攻で井伊直盛と共に織田氏の鷲津砦を攻略。窮地にあった大高城を救ったが、後続本隊の義元が桶狭間の戦いで討死。やむなく放棄し、撤退した。
 義元の横死後、三河国・遠江国の今川領内では動揺が拡大、離反する諸将もある中で、今川氏真を支える姿勢を貫いた。永禄5年(1562年)3月には、小野道好の讒言により謀反の疑いのかかった井伊直親を氏真の命により殺害している。永禄期には三浦氏満と共に越後国の上杉氏との交渉に当たった。
 永禄11年(1568年)12月、甲斐国の武田信玄が同盟を破棄して駿河国に侵攻。それによって氏真が駿河を追われると、泰朝は氏真を掛川城に迎えて保護した。同年末には三河の徳川家康が遠江に攻め寄せている。家康は曳馬城を陥落させるなど順調に遠州を制圧し、掛川城を攻囲した。こうした状況の下で、今川氏の重臣の大半は氏真を見限って甲斐武田氏や徳川氏に寝返ったが、泰朝は今川氏に最後まで忠義を尽くしている。
 掛川城を守る泰朝は5ヶ月に亘って奮戦したが、援軍の見込めぬ中での戦いには限りがあった。永禄12年(1569年)5月17日、氏真は開城要求を受け入れ、伊豆国に退去することとなったが、この時も泰朝は氏真に供奉し、伊豆へ同行した。氏真は北条氏の庇護の下に入ったが、泰朝は上杉謙信の家臣・山吉氏に援助を要請するなどの活動を行っている。その後、氏真は家康を頼って浜松城に出向くものの、泰朝はこれには従わなかった。泰朝のその後の消息は不明だが、子孫は徳川家臣の酒井忠次家に仕えた。 

 『寛永伝』では実名を元長と記すが、「元長」は彼の法名及び彼が開基となった菩提寺(元長寺)のことで、実名ではない。また、異説として、元長を息子の信置の初名とするものもある。父とされる朝比奈俊永の事績も不明で、親徳が初代当主であったとする見方もある。
 主君・今川氏親から偏諱を受けた。駿河国において太原雪斎らと共に家中では重鎮であった。天文17年(1548年)の小豆坂の戦いでは、一族の朝比奈泰能や子・信置らと共に参戦。永禄2年(1559年)には関口親永と共に松平元康の後見人も務めた。安祥松平家(後の徳川氏)のみならず、大給松平家などの他の松平氏一族や牧野氏などの小指南役であったとみられる。
 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて、尾張国の織田氏の急襲によって窮地に陥った今川本陣で奮戦、鉄砲により負傷し討死したと伝わるがこれは誤りで、実際には戦場を離脱した後で主君・義元の戦死を聞いて深く悔やんだという。その後も、今川氏真の下で奉行人を務め、永禄9年8月22日(1566年9月5日)に死去している。 

朝比奈信置 朝比奈信良

 天文17年(1548年)の小豆坂の戦いでは先陣を務め、手柄を立てた。また、『甲陽軍鑑』によれば、山本勘助を義元に推挙した人物とされる。
 永禄12年(1569年)、武田信玄の駿河侵攻に際して武田方に帰属する。信置は武田信玄から庵原領を与えられ、駿河先方衆筆頭として重用された。庵原城領の信置は遠江国高天神城領の小笠原信興と共に武田勝頼期に追認された在城主の典型例と評されている。庵原郡の江尻城は武田氏の駿河支配拠点で穴山信君が城代となっており、穴山氏は庵原郡一円に支配を及ぼし、領域支配諸権を持つ支城領としての「江尻領」を形成していたともいわれる。
 天正3年(1575年)の長篠の戦いに従軍し、天正8年(1580年)には持船城の城代にもなった。持船城は天正10年(1582年)2月から織田信長,徳川家康連合軍による武田征伐が開始されると、持船城は徳川軍に攻められて2月21日に開城する。庵原山城も徳川軍に落とされた。武田勝頼が自刃して武田家が滅亡した後の4月8日、織田信長の命令により自刃した。享年55。嫡子・信良も甲斐武田家滅亡の際に諏訪で織田軍によって殺されている。一族では、3男・朝比奈宗利が徳川家康幕下に入り、持船城城代となり、この系譜が江戸時代に続いた。
 『甲陽軍鑑』では信置は用兵に長けた軍略家で、武田家譜代の重臣からも敬意を払われていた旨が記されている。また駿河守の官位から武田家の板垣信方,毛利家の吉川元春と共に「戦国の三駿河」と称された。 

 諱の「信」は甲斐武田氏の偏諱。天正3年(1575年)朝比奈氏の嫡流・朝比奈泰茂より名跡を譲られる。天正8年(1580年)父の信置と共に駿河持船城に在番。天正9年(1581年)父より家督を継ぎ、右兵衛大夫を称した。天正10年(1582年)2月、武田征伐が始まると、2月に信良は持船城より敗走したが、武田家が滅亡すると織田信長により信濃国諏訪において処刑された。子の良保は信良が没した年に生まれ、はじめ跡部勝資の弟の昌秀の養子となり、のち勝資の孫娘(和田信業娘)を娶った。

 

朝比奈宗利 朝比奈泰勝

 父と同じく今川氏・武田氏に仕える。天正8年(1580年)駿河に侵攻する徳川家康勢と戦って兄の元永とともに武功があった。天正10年(1582年)甲州征伐の際には持船城に在城し、父と長兄の信良が死去したが、宗利は家康の計らいによって難を逃れた。
 その後、羽柴秀吉に仕えたが程なく本能寺の変が起きたため、秀吉の許しを得て家康に合流するために堺へ急行し、家康が既に帰国したと聞くとそのまま三河に走り、400石で家康に仕えることになった。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは家康の旗本に属し、長久手での戦闘で首級を挙げている。その後も小田原征伐、関ヶ原の戦い、大坂の陣に従軍している。徳川秀忠の代には世子の家光附きとなった。寛永10年(1633年)大番組頭を辞して小普請に移る。同年、蟄居中の富田信高が没すると、その検使として陸奥岩城へ派遣されている。正保4年(1647年)85歳で没。家督は既に幕府へ出仕していた嫡男の良明が継承した。

 戦国大名家としての今川氏が滅亡後も氏真の下にあったが、天正3年(1575年)、長篠の戦いが起きると氏真の使者として徳川陣中を見舞った際に、甲斐国の武田勝頼の武将・内藤昌豊を討ち取っている。これに感心した家康は氏真から泰勝をもらい受けたという。
 以後は徳川氏の家臣として、天正12年(1584年)の長久手の戦いでも戦功を挙げた。天正16年(1588年)、北条氏直が豊臣秀吉と和議を持とうとした際には使者として小田原城に赴き、北条氏規に上洛を促した。天正18年(1590年)の小田原征伐でも使者として氏直と秀吉の間を行き来した。
 後に旗本として大番頭となり、慶長7年(1602)10月2日に近江国栗太郡において1000石を賜った。その後、家康の10男・徳川頼宣附きとなり、慶長13年(1608年)2月20日に常陸国茨城郡の2000石を加増された。
 寛永10年(1633年)9月23日、紀伊国和歌山において死去。享年87。 

朝比奈氏泰 朝比奈元智

 永禄年間、浜名湖西岸に位置する遠江宇津山城主として、三河国・遠江国の国境付近を守備し、特に三河国東部八名郡に睨みを効かせていた。
 永禄4年(1561年)、松平元康(徳川家康)が今川氏から独立のため、東三河国人領主を調略して蜂起させはじめると、すぐに出陣。三遠国境を越えて同年9月11日(新暦10月6日)に三河八名郡の国人西郷氏の五本松城を急襲し、城主・西郷正勝及び救援に戻った嫡子で月ヶ谷城主の元正を討ち取っている。しかし、翌永禄5年(1562年)2月(旧暦)には正勝の次男・清員率いる徳川軍と、豊川沿岸の八名郡勝山周辺ついで同郡賀茂において再び戦ったが敗れ、清員に西郷氏領を奪還されている。
 同年11月晦日に死去、宇津山の正太寺に葬られた。
 跡は長男・孫太郎泰充が継いだが、翌永禄6年9月21日(1563年10月8日)に弟(泰長の次男),真次に殺害され、以後、真次が宇津山城主となり紀伊守を称したとされる。真次は徳川氏に恭順した三河宝飯郡伊奈城主・本多忠俊の長女を室としていたため徳川家康への内通説がある。このためか泰長の系統は真次の子孫が江戸時代には幕臣として存続している。 

 朝比奈時茂の3男とされる。今川義元に仕え、義元から篤い信頼を寄せられ、偏諱を受けて元智と名乗る。
 天文16年(1547年)、今川軍が駿河国へ護送中の松平竹千代(後の徳川家康)を尾張国の織田信秀に売り渡した戸田康光を討伐するため、三河渥美郡の田原城を攻め落とすと、元智は田原城代に任じられた。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにも参陣した。その後の消息はわかっておらず、桶狭間の戦いで戦死したとも、駿河国を離れ甲斐国へ逃れたともいわれるが詳細は不明。