安房国朝夷郡に領地としたことで朝比奈を苗字とする。朝比奈氏(和田氏一族)の当主。 正治2年(1200年)9月、小壺の浜で2代将軍・源頼家が若い御家人たちとともに笠懸をし、船を出して酒宴を催していたとき、水練の達者と聞き及ぶ義秀にその芸を見せるよう命じた。義秀は海に飛び込み、10回往還し、次いで海の底へ潜り、三匹の鮫を抱きかかえて浮かび上がり、その大力を示した。頼家がその技を賞して奥州産の名馬を賜おうとすると、この馬はかねてより兄の常盛が所望していたものなので、義秀と常盛が浜で相撲の対決をすることになった。双方大力で容易に勝敗は決しなかったため、北条義時が間に入って引き分けさせたが、常盛は衣を着替える間もなく馬に飛び乗って去ってしまった。義秀は大いに悔しがり、その座にいた者たちは大笑いした。 義秀の大力については、鎌倉の朝夷奈切通(朝比奈切通し)は義秀が一夜で切り開いたものという伝説もある。 建暦3年(1213年)5月2日、度重なる執権北条義時の挑発に対し、父・義盛は挙兵を決意。和田一族150騎を率いて鎌倉の将軍御所を襲撃した。『吾妻鏡』によると、この合戦でもっとも活躍したのが義秀であった。義秀は惣門を打ち破って南庭に乱入。防戦にあたった御家人の五十嵐小豊次,葛貫盛重,新野景直,礼羽蓮乗らを次々に斬り伏せ、「神の如き壮力をあらわし、敵する者は死することを免れず」と称賛された。御所を守る御家人に従兄弟の高井重茂(義盛の弟・義茂の子)がいた。一族同士雌雄を決することを望み、弓を捨てて馬上組みあい、双方落馬しながら格闘し遂に重茂を討ち取った。そこへ北条朝時(義時の子)が斬りかかるが、義秀はものともせずに打倒し、朝時は負傷してかろうじて退いた。 その後、政所前の橋で義秀は足利義氏(義時の甥)と遭い、義秀は逃がさずと鎧の袖を掴み、義氏は敵わずと逃げ、鎧の袖を引きちぎられながらも馬上の達者なために辛うじて落馬せず走り、そこへ鷹司官者(野田朝季)が遮り、義秀はこれを殺したが義氏は逃してしまった。義秀の奮戦があったものの、和田勢は疲労し由比ヶ浜へ退いた。翌3日、横山党の来援を得た和田勢は若宮大路へ押し出し、幕府軍と激戦した。義秀はこの日も奮戦し、陣へ討ちかかってきた鎮西の住人・小物資政を討ち取り、土屋義清,古郡保忠と3騎轡を並べて敵陣に突入し、幕府軍を攻め立て追い散らした。だが、幕府軍は大軍で新手を次々繰り出し、和田勢は疲弊し、次第に数を減らし、ついに弟の義直が討たれ、愛息の死を嘆き悲しみ大泣きした義盛も討ち取られた。一族の者たちが次々と討ち死にする中、剛勇の義秀のみは死なず船6艘に残余500騎を乗せて所領の安房国へ脱出した。 その後の消息は不明。『和田系図』では高麗へ逃れたとしている。 『源平盛衰記』では木曾義仲滅亡後、義仲の愛妾であった女武者巴御前が鎌倉へ下り、義盛があのような剛の者に子を産ませたいと頼朝に申し出て、巴を娶ったのち朝比奈義秀が生まれたとしている。しかし『吾妻鏡』の記録によると義仲滅亡時に義秀はすでに9歳になっており、巴が義秀の母というのは年齢的にありえず、物語上の創作と見られる。また、義盛が巴を妻としたとするのも『源平盛衰記』のみで、『吾妻鏡』や『平家物語』にも見られない話である。義秀は天下無双の大力と称され、鎌倉朝比奈峠を一夜で切通したという伝承をもつ豪傑であるから、その豪傑の義秀と、勇婦の巴を結び付けたのであろう。このような伝承が生じた背景を案ずれば、和田義盛は、侍別当として屋敷に罪人を預かる牢屋を備えていたから、巴を三浦の自館に預かっていた可能性も考えられる。
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建暦3年(1213年)、弟の義重と従兄弟の胤長と共に泉親衡の乱の企てに加担する。同年2月、企てが発覚すると、伊東祐長のもとで禁固に処されるが、父・義盛の嘆願により北条義時の同意の上、弟の義重と共に赦免されるが、胤長は赦されず、陸奥国岩瀬郡へ配流となった。この幕府の裁断に不満を持った義盛は一族を集め挙兵(和田合戦)。義直は5月3日に伊具盛重に討ち取られた。享年37。 高知県土佐郡土佐町和田には和田義直が生き延びて当地に辿り着いたという伝承がある。その伝承によると、建保4年(1216年)に讃岐国和田浜に下向して、その地に7年住んだ後、土佐国に移住した。その地の土佐和田氏は義直の子孫を称して、戦国時代の和田義清,和田義光親子らは長宗我部氏に従った。
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