| F665:八田知家 | 藤原師輔 ― 藤原道兼 ― 宇都宮宗円 ― 八田知家 ― 茂木知基 | F667:茂木知基 | ● |

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| 茂木知基 | 茂木知宣 |
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| 茂木氏は鎌倉幕府の有力御家人で、常陸守護職に任じられた八田知家の3男・知基に始まる。知家は建久3年(1192年)、将軍源頼朝から下野国茂木郷の地頭職を与えられ、3男の三郎知基を現地に遣わした。茂木郷に下向した知基は桔梗城に拠り、茂木三郎を称して茂木氏の初代となった。『吾妻鏡』の建久6年(1195年)の記事に、知基は流鏑馬16人のうち11番目の射手として選ばれている。また、承久3年(1221年)の承久の乱に出陣、戦功により紀伊国賀太庄を与えられた。 |
宝治元年(1247年)、宝治合戦が起り、執権・北条時頼が幕府御家人としても勢力を誇っていた三浦氏を攻め滅ぼした。この宝治合戦に茂木知基の子・知定は三浦氏に与したとの疑いをかけられ、乱後の論功行賞から漏れた。恩賞に漏れた知定は、書状や起請文を提出して嫌疑を晴らすとともに恩賞にも預かっている。『吾妻鑑』には知定を茂木氏の当主としているが、茂木氏側の史料(系図)には存在せず、知宣の初名か実在はしたが何らかの事情で後世の系譜に残らなかった八田氏庶流の人物とされる。知定にとって執権北条氏から嫌疑を受けることは、自家存続のうえでにも重大事であり、なんとしても晴らさなければならないものであったのである。 |
| 茂木知世 | 茂木朝音 |
| 知貞の跡を継いだ知世は、父・知貞とともに足利方として活躍した。すなわち、建武3年(1336年)12月より翌年7月まで足利一門の大将・桃井氏に属して結城郡,下野国下条原,宮隠原,乙妻・真々田原,常陸国関城などで南朝方の北畠顕家軍と戦った。建武4年12月には、奥州より長駆京都を目指した北畠軍を、桃井氏に従って追撃、鎌倉や畿内各地で奮戦した。延文4年(1359年)9月、畿内の南朝軍討伐のため出陣を命じられた知世は、戦死した場合の自分の命日のこと、領内寺院への配慮、日光社参などを指示した置文を書いている。 |
貞治元年(1362年)に西国凶徒討伐、翌年に宇都宮氏綱の乱の鎮圧、4年には信濃国凶徒退治のため出兵を命じられ、恩賞として信濃国内に所領を与えられた。また小山氏の茂木領への進出があったとみられ、小山義政の乱討伐にも参陣した。小山氏は鎌倉公方・足利氏満の制止を聞き入れず宇都宮領に侵攻し、宇都宮基綱を討ち取ったもので、公方氏満は小山義政の討伐を決し、東国の諸将に動員令を発し、朝音にも御教書が届けられたのである。 |
| 茂木知良 | |
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関東管領・山内上杉憲政を越後に庇護した長尾景虎(のちの上杉謙信)は、永禄3年(1560年)、憲政を擁して関東に出兵した。翌年、上杉氏の名字を譲られ関東管領となった謙信は、以後、連年にわたって関東に出兵、北条方との戦いを繰り返した。関東の諸将は上杉氏あるいは後北条氏に属して時代に身を処した。佐竹氏は謙信に属し、茂木氏も佐竹氏とともに謙信方として行動した。 |