<藤原氏>北家 道兼流

F665:八田知家  藤原師輔 ― 藤原道兼 ― 宇都宮宗円 ― 八田知家 ― 茂木知基 F667:茂木知基

リンク F784
茂木知基 茂木知宣
 茂木氏は鎌倉幕府の有力御家人で、常陸守護職に任じられた八田知家の3男・知基に始まる。知家は建久3年(1192年)、将軍源頼朝から下野国茂木郷の地頭職を与えられ、3男の三郎知基を現地に遣わした。茂木郷に下向した知基は桔梗城に拠り、茂木三郎を称して茂木氏の初代となった。『吾妻鏡』の建久6年(1195年)の記事に、知基は流鏑馬16人のうち11番目の射手として選ばれている。また、承久3年(1221年)の承久の乱に出陣、戦功により紀伊国賀太庄を与えられた。 

 宝治元年(1247年)、宝治合戦が起り、執権・北条時頼が幕府御家人としても勢力を誇っていた三浦氏を攻め滅ぼした。この宝治合戦に茂木知基の子・知定は三浦氏に与したとの疑いをかけられ、乱後の論功行賞から漏れた。恩賞に漏れた知定は、書状や起請文を提出して嫌疑を晴らすとともに恩賞にも預かっている。『吾妻鑑』には知定を茂木氏の当主としているが、茂木氏側の史料(系図)には存在せず、知宣の初名か実在はしたが何らかの事情で後世の系譜に残らなかった八田氏庶流の人物とされる。知定にとって執権北条氏から嫌疑を受けることは、自家存続のうえでにも重大事であり、なんとしても晴らさなければならないものであったのである。
 茂木氏は本領である茂木五ヶ郷のほか、信濃国・越後国・能登国・紀伊国などに所領を有していた。そして、全国に散在する所領の統治は、庶子や代官を派遣して行っていたようだ。『茂木文書』によれば、茂木氏は惣領を中心として、所領を庶子に分け与え、庶子は所領高に応じて年貢・公事を割り当てられ、軍役も課せられていた。いわゆる惣領制による支配を行っていたことが知られる。  

茂木知世 茂木朝音
 知貞の跡を継いだ知世は、父・知貞とともに足利方として活躍した。すなわち、建武3年(1336年)12月より翌年7月まで足利一門の大将・桃井氏に属して結城郡,下野国下条原,宮隠原,乙妻・真々田原,常陸国関城などで南朝方の北畠顕家軍と戦った。建武4年12月には、奥州より長駆京都を目指した北畠軍を、桃井氏に従って追撃、鎌倉や畿内各地で奮戦した。延文4年(1359年)9月、畿内の南朝軍討伐のため出陣を命じられた知世は、戦死した場合の自分の命日のこと、領内寺院への配慮、日光社参などを指示した置文を書いている。 

 貞治元年(1362年)に西国凶徒討伐、翌年に宇都宮氏綱の乱の鎮圧、4年には信濃国凶徒退治のため出兵を命じられ、恩賞として信濃国内に所領を与えられた。また小山氏の茂木領への進出があったとみられ、小山義政の乱討伐にも参陣した。小山氏は鎌倉公方・足利氏満の制止を聞き入れず宇都宮領に侵攻し、宇都宮基綱を討ち取ったもので、公方氏満は小山義政の討伐を決し、東国の諸将に動員令を発し、朝音にも御教書が届けられたのである。
 小山義政の乱後、間もなく朝音は所領を嫡男・基知と2男・幸楠丸に譲って死去した。 

茂木知良

 関東管領・山内上杉憲政を越後に庇護した長尾景虎(のちの上杉謙信)は、永禄3年(1560年)、憲政を擁して関東に出兵した。翌年、上杉氏の名字を譲られ関東管領となった謙信は、以後、連年にわたって関東に出兵、北条方との戦いを繰り返した。関東の諸将は上杉氏あるいは後北条氏に属して時代に身を処した。佐竹氏は謙信に属し、茂木氏も佐竹氏とともに謙信方として行動した。
 天正9年(1581年)に起きた笠間氏と益子氏の間に紛争を通して結城氏・水谷氏らの勢力が益子領に拡大し、それはやがて茂木氏との間に軍事衝突を引き起こすこととなった。『益子系図』によれば、天正14年、益子氏一族の七井忠兼は新福寺で茂木山城守(筑後守治良とも)と戦い討死したという。また『茂木系図』によれば、新福寺の戦いの一年後に矢口の台で合戦があったという。
 新福寺の戦いで茂木氏に敗れたことを無念に思った益子重綱(家宗)は結城晴朝に後詰めを頼み、天正15年(1587年)9月、益子・結城晴朝連合軍1,500騎が茂木領に進撃した。益子氏の出動を知った茂木治良は、佐竹義宣の支援を頼み天矢場に向かったが敵は現れなかった。ひとまず兵を引いたところ、益子・結城連合軍が佐夫良峠に寄せてきたのであった。ただちに出陣した治良は、益子・結城軍を撃退するとともに、その余勢を駆って北方二里まで追撃を加えたという。
 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原の役が起ると、茂木治良は佐竹一族や宍戸・太田・真壁氏らとともに佐竹義宣に従って秀吉に謁見した。小田原落城後、秀吉は関東・奥羽の仕置を行い、佐竹氏は常陸国並びに下野国内に21万750貫文の安堵を受けた。そのなかには、茂木氏や武茂氏,松野氏らの領地も含まれていた。こうして茂木氏らは独立した領主ではなく、佐竹氏の家臣として位置付けられたのであった。
 茂木治良は、朝鮮の役には佐竹義宣に属して肥前名護屋に着陣した。文禄3年(1594年)、義宣が太閤検地をもとに家臣の知行替えを行った。このとき、茂木城には義宣直臣の須田盛秀ほか茂木百騎が配置され、治良は常陸国小川城へ移封され茂木氏による茂木支配は終わりを告げた。
 慶長5年(1600年)に起った関ヶ原の合戦において、態度を曖昧にした佐竹氏は減封処分を受け、常陸から出羽国久保田へ所替えとなった。このとき、治良も子・義成ととも佐竹氏に従って秋田へ移り、仙北郡横手において73歳の生涯を閉じた。子孫は佐竹氏の重臣として続いた。