| F644:宇都宮宗円 | 藤原師輔 ― 藤原道兼 ― 宇都宮宗円 ― 八田知家 | F665:八田知家 |


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| 八田知家 | 中条家長 |
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保元元年(1156年)の保元の乱では源義朝側について戦い、功績をあげる。治承4年(1180年)8月の源頼朝挙兵に早くから参じており、同年には下野国茂木郡地頭職を安堵された。寿永2年(1183年)野木宮合戦に参加。元暦元年(1184年)8月の源範頼率いる平氏追討軍に従軍。文治元年(1185年)4月、前年に源義経が無断任官で頼朝の怒りを買った際、知家も右衛門尉に任官しており、頼朝から「鎮西に下向する途中に京で任官するなど、怠け馬が道草を食うようなものだ」と小山朝政と共に罵倒されている。文治5年(1189年)7月の奥州合戦では千葉常胤と共に東海道大将軍に任ぜられ、福島の浜通りから奥州藤原氏を追い詰めた。 |
義勝法橋盛尋(中条兼綱)の子。横山党小野氏の出身。八田知家の養子となり、藤原北家道兼流と称して苗字を中条と改名した。治承・寿永の乱では源範頼の配下に藤次家長の名前が記録されており、おそらく中条家長であると推測されている。鎌倉では若宮大路沿いに自邸を構えていた。治承8年(1184年)の一ノ谷の戦いでは、源範頼に従って参戦している。また、文治5年(1189年)から翌6年(1190年)にかけての奥州合戦や大河兼任の乱、元久2年(1205年)の畠山重忠の乱の討伐軍にも従軍している。 |
| 中条長秀 | 中条詮秀 |
| 念流開祖の念阿弥慈恩の門に入り、慈恩の高弟である「念流十四哲」の一人となる。 その後、家伝の武術を体系化して中条流平法を創始したと伝えられている。 |
室町幕府第2代将軍・足利義詮から一字を賜り詮秀と名乗る。応安2年/正平24年(1369年)に父の秀孝から家督を譲り受け、挙母城主となる。領内にある猿投神社を厚く信仰し、度々寄進を行っている。応永2年(1395年)4月5日には現在、樫鳥縅鎧(重要文化財)を奉納している。 |
| 中条満秀 | 中条満平 |
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室町幕府第3代将軍・足利義満から一字を賜り満秀と名乗る。『後鑑』に義満の供奉として康暦元年/天授5年(1379年)7月25日に登場するのが最初で、以降、明徳3年/元中9年(1392年)8月28日まで幕府出仕の記録が見られる。既に家督を譲られていたと思われるが、応永19年(1412年)10月16日、父に先立って没する。生誕年不詳のため享年も不明。 |
兄・満秀と同様に、室町幕府第3代将軍・足利義満から一字を賜り満平と名乗る。応永19年(1412年)10月に満秀が没したため、中条家の家督を継ぐ。 |
| 中条秀章 | |
| 当時の中条氏の所領の一つに三河国加茂郡高橋荘がある。明応2(1493)年10月、中条秀章は、加茂郡伊保の三宅加賀守,寺部の鈴木日向守,八草の那須惣左衛門,碧海上野の阿部孫次郎らとともに、安祥城主・松平親忠と井田野で戦い、敗北を喫した。中条氏の支配体制は確実に綻びをみせ、被官である三宅・鈴木氏らも自立の姿勢をみせるようになり、中条氏による高橋荘支配も有名無実化していった。 |