<藤原氏>北家 道兼流

F665:八田知家  藤原師輔 ― 藤原道兼 ― 宇都宮宗円 ― 八田知家 ― 小田知重 F666:小田知重


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小田知重 小田泰知

 父とともに源頼朝に従い、治承5年(1181年)には頼朝より弓術の達人11人の中に選ばれ、寝所の警備役に任じられている。元暦元年(1184年)の平氏追討では父とともに源範頼軍に従って西国に下向。文治5年(1189年)の奥州合戦にも父とともに東海道軍として出陣している。建久元年(1190年)、頼朝の上洛に父らとともに随行し、頼朝より有功の者として知家が推挙を受けたため、既に叙任を受けていた父の譲りを受けて従五位下左兵衛尉に任じられる。また建久6年(1195年)の二度目の上洛にも随行している。
 正治元年(1199年)、梶原景時を弾劾する御家人66名に加わる。元久2年(1205年)、弟の知氏や義弟の中条家長らとともに北条義時軍に加わり、武蔵国二俣川で畠山重忠と戦う(畠山重忠の乱)。建暦3年(1213年)、自邸の近隣に屋敷を構える和田義盛が軍兵を集めていることを察して大江広元にそのことを報告し、和田合戦の端緒を開いた。なお、この戦いで弟の宍戸家政が討死している。前後して父・知家は入道し、常陸国守護は知重が継承した。承久3年(1221年)、承久の乱では当初は北条泰時・時房の東海道軍に属し、後に千葉胤綱や結城朝広とともに北陸道軍への増援となっている。戦後は乱に加担を疑われた日吉大社禰宜・祝部成茂の身柄を預かっている。その後、常陸の知行国主・二条定輔と結んで同国御家人・大掾氏が相伝する常陸大掾職を奪おうと画策したが、安貞元年(1228年)に幕府より「非分之望」とこれを退けられている。これによって知家以来の対大掾氏行動は終息したと思われる。

 常陸国守護を務めた有力御家人・小田知重の嫡男として生まれる。祖父・父の跡を継いで常陸守護を務めた。泰知は寛元3年(1245年)35歳で死去したが、嫡男・時知は当時幼く、あるいは生母が宝治元年(1247年)の宝治合戦で没落した三浦氏の出身だったため、従弟の宍戸家周(国家)が守護職を継ぐことになった。ただし、晩年の動向については不明点があり、宝治合戦で三浦方で参戦したために守護職と共に所領の一部を没収されたとする説もある。 
小田治久 小田孝明

 生年を1283年2月10日(弘安6年1月12日)とする説もあるが、父の貞宗の生年と同じであり矛盾する。故に貞宗と治久を兄弟とする説や正安2年(1300年)生まれとする説があり、初名の高知が鎌倉幕府第14代執権の北条高時より偏諱を受けたものとされることからも後者が正しいと判断される。
 嘉暦2年(1327年)、父の代理として陸奥の安藤氏の乱鎮圧で功を挙げ、翌年鎌倉に帰還した。元弘元年(1331年)の元弘の乱では鎌倉幕府軍に従ったが、同幕府が滅亡するとその罪を問われることを恐れて、幕命で常陸国に流罪とされていた万里小路藤房を助けて上洛し、後醍醐天皇に仕え、その諱「尊治」の一字を受けて治久に改名したとされる。のちに足利尊氏が後醍醐天皇の建武政権から離反すると南朝側に与し、延元元年/建武3年(1336年)には常陸瓜連城などに拠って楠木正家と共に、常陸の佐竹氏などの北朝勢力と戦った。その後、延元3年/暦応元年(1338年)に北畠親房を小田城に迎えたため、尊氏の命を受けた高師冬の攻撃を受け、興国2年/暦応4年(1341年)には北朝に降伏することを余儀なくされた。以後は北朝方に属して戦い、師冬に従って関・大宝両城の攻略にあたった。ただし、師冬は治久に対して官位と所領の安堵を約束しながら降伏後に共に没収したことから、興国3年/康永元年(1342年)頃には小田一族の中で南朝側への再離反の噂が立つなど不穏な状況が続いていたが、最終的には北朝側に留まって武蔵野合戦において尊氏の下で戦っている。
 正平7年/文和元年(1352年)12月17日、死去。跡を子の孝朝が継いだ。 

 正平9年/文和3年(1354年)の足利尊氏の上洛の際に随行し、『太平記』によれば・既に讃岐守に任命されている。その後も当時の東国武士としては破格の昇進をしている。孝朝が一流の教養人として尊氏の側近であった可能性があるとしても、南朝側で長く戦っていた治久の子であることや治久との年齢差から、治久の実子ではなく宍戸朝家の嫡男・氏朝と同一人物とする説がある。
 小山義政の乱が起こったとき、その鎮定に先鋒として功を挙げた。ところが、それに対して鎌倉公方・足利氏満の恩賞が不当に少なかったことへの不満や小山氏が滅ぼされたことに対する不安から、元中3年/至徳3年(1386年)の小山若犬丸の乱の首謀者である小山若犬丸を秘かに匿った。ところが、翌1387年、孝朝親子が鎌倉に参仕している最中にこの事実が発覚、6月13日、孝朝親子を幽閉した足利氏満は上杉朝宗らの討伐軍を小田城に向かわせる。主を捕えられた一族・家臣は小田城・男体城に籠って抵抗するが、翌年7月19日には男体城を攻め落とされて降伏した(小田氏の乱)。戦後、京都の将軍・足利義満の命令もあり、氏満は孝朝の一命は助命し、所領の一部没収だけの処罰にとどめている。その後は特に政界で目立った行動は起こさず、もともと豊かな教養人であったため、和歌や書に没頭した。和歌においては、勅撰和歌集である『新千載和歌集』『新拾遺和歌集』に採録され、前者の中には足利尊氏に召されて詠んだ和歌も含まれている。また、剣術にも大いなる興味を持ち、三河の中篠頼平あるいは小田氏と同族の中条長秀から剣術を学び、小田流剣法を創始した。応永21年(1414年)6月16日に死去した。享年78。長男の治朝に先立たれていたため、嫡孫の持家が跡を継いだ。 

小田持家 小田朝久

 父は早くに亡くなり、祖父の小田孝朝に養育された。のち元服時に鎌倉公方足利持氏より偏諱を受けて持家と名乗る。室町時代の小田氏は関東の政治においては非主流派であり、それに不満な持家は上杉禅秀の乱の際には上杉氏憲(禅秀)に味方し、禅秀らの敗北の後は降参したものの足利持氏により所領の一部を没収され、小田氏をさらに衰退させることになる。永享の乱と結城合戦の際は関東管領上杉氏(上杉憲実)に味方し、持氏とその与党を滅ぼす。その後は旧領回復をめざして信太荘へ勢力を侵食させ、江戸崎土岐氏と戦うことになる。
享徳の乱の際には古河公方足利成氏(持氏の子)に味方し、関東管領上杉氏と戦ったが、康正元年(1455年)、子の朝久に先立たれることになる。その後は孫の小田成治を養育・後見した。長禄3年(1459年)11月には常陸で佐竹実定(佐竹義人の子で上杉憲実の猶子)・江戸通房(実定の補佐役)を破っている。 

 小田氏の第12代当主。官位は中務大夫。康正元年(1455年)、足利成氏に従って古河を守備した。同年春、成氏の命を受けて上杉房顕・長尾景仲らを討伐するために常陸小栗城を攻撃中に陣中で病に倒れ、父に先立って閏4月20日に病死してしまった。享年39。家督は子の成治が継いだが幼少のため、父の持家が後見人となった。 
小田成治 岡見治資
 享徳4年(1455年)、父の朝久の戦死後、家督を継ぐ。幼少のため、当初は祖父の小田持家に養育・後見された。享徳の乱においては古河公方に従い活動する。続く長享の乱においては扇谷上杉家方として活動した。近隣の江戸氏や大掾氏,江戸崎土岐氏と抗争し勢力を保ったが、治世の後半は長子の治孝と次子の顕家との家督争いが勃発するなど振るわなかった。   常陸の国境付近に勢力を持ったため、佐竹氏とたびたび争ったという。永禄12年(1569年)、手這坂の戦いで氏治軍の一軍として戦い、真壁久幹配下の根来法師大蔵坊の鉄砲に胸板を撃ち抜かれ戦死した。しかし、彼の父とされる小田治孝は生まれる36年前に死亡しており、一代欠落しているか、治資自身の生年が誤りか、実は血縁関係(いわゆる死後養子)はないと考えられる。 
小田顕家 小田政治
 北条城を領有したため北条顕家とも呼ばれる。成治の次子であったが、明応5年(1496年)頃に家督争いを起こし、兄の治孝を殺害した。そのため、成治は小田政治を当主とした。政治は成治の実子で顕家の弟とも養子で足利政知の実子ともいわれる。まもなく顕家は追討され滅ぼされたといわれるが、その末路は詳しくは分かっていない。 

 小田氏の中興の祖とよばれ、小田氏を戦国大名化へと導き、最盛期を築いた。明応元年(1492年)、堀越公方・足利政知の子として生まれる。父の政知は前年に死去していたため、父の死後に生まれたことになる。名前については亡き父・政知と養父・成治から1字ずつ取ったということになる。
 永正11年(1514年)、成治の死去により家督を継いで第14代当主となる。古河公方の内紛では宇都宮成綱・忠綱,結城政朝らとともに足利高基を支持し、佐竹義舜,小山成長,岩城常隆・由隆,結城顕頼ら足利政氏を支持した戦国大名らと対立した。また、高基が父・政氏に勝利し古河公方になったことで、関東南部で急激に勢力を拡大する後北条氏を危惧し、妹を佐竹義篤の妻にさせ、佐竹氏との関係強化を図った。
 享禄4年(1531年)、石岡の戦いで江戸氏を破った。天文6年(1537年)には多賀谷氏と同盟して結城政勝と戦ったが敗れている。他にも古河公方足利家などと戦うなど、多方面で敵勢力と戦い、小田氏の勢力を拡大した。天文14年(1545年)の河越夜戦では足利晴氏に味方して敗れており、政治の晩年ころから小田氏の衰退が始まった。
 天文17年(1548年)に死去。享年57。跡を嫡子の氏治が継いだ。 

小田氏治 小田守治

 小田氏15代にして小田氏最後の当主。常陸の佐竹義昭・義重父子や下総の結城政勝・晴朝父子、越後の上杉謙信と戦い、相模の北条氏康・氏政父子と手を結んで父祖代々の地の防衛に努めた。30年以上にもおよぶ本城・小田城争奪戦など度重なる合戦でしばしば勝利を収めるも、上杉氏や北条氏の援助が弱まり孤立すると、佐竹氏の激しい攻撃に晒された。晩年は先祖伝来の故地・小田城奪回に執念を燃やし、佐竹氏と戦いを続けており、「小田原攻めの秀吉軍に参陣せず、豊臣方の佐竹氏に反旗を翻し、小田城奪還の兵を起こした」ことを理由に所領を全て没収され、大名としての小田氏はここに終わる。
 小田原征伐後、秀吉の直臣となることを願うが叶わなかった。天正19年(1591年)8月10日、氏治は奥州巡察に向かった秀吉を追って会津へ行き、浅野長政を通じてその罪を謝した。秀吉はこれを許し、結城秀康の客分として300石を与えられた。
 結城秀康の転封に従い、嫡男・守治と共に越前浅羽に移った。同時期に庶長子・友治も結城家に仕えている。慶長6年(1601年)閏11月13日に死去した。享年68、もしくは71。遺体は一旦越前国の永平寺に葬られたが、後に常陸国の新善光寺に改葬された。
  後世にも「戦に弱い戦国武将」の代表格として語り継がれているが、居城・小田城を9度奪われるも8度奪い返しているため「常陸の不死鳥」の異名を持つ。 

 豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため、所領を没収された。その後、妹が結城秀康の側室になっていた縁からこれに仕えた。関ヶ原の戦いの後、秀康が越前への転封となると、これに従った。 
小田友治 小田義治

 守治の庶兄。八田左近としても知られる。妻は芳賀伯耆守の娘。氏治の子だが庶子だったため、氏治が北条氏康と同盟を結んだ際にその人質として北条氏に出された。そこでそのまま家臣となり、次の氏直の代にも仕えている。天正18年(1590年)の北条氏滅亡後は豊臣秀吉に、のち秀次に1000石で仕える。東国に出入りし、東国大名の動静を秀吉に伝える間諜としての行動もとっている。朝鮮出兵では舟奉行として功があり、播磨国赤穂および伊勢国羽田で3100石を与えられた。伊勢羽田郷八村を「八田」と改名し、自身も祖先の姓である「八田」と改姓した。秀次事件の連座で改易となると、難を逃れてほとぼりが冷めるまで逐電した。その後、堀尾吉晴の斡旋で慶長3年(1598年)に徳川家康に拝謁し、その後一時結城秀康に仕える。
 関ヶ原の戦いでは秀康に抜け駆けを薦めたことが家康の逆鱗に触れ、秀康の越前転封に際してやはり秀康に仕えていた弟・守治が小田氏として嫡流にあたることからその家臣になるよう迫られ、結局、結城家を退去するに至った。その後、やはり小田家や結城家の縁を頼りに松平定勝に仕えたが、程なくして致仕。その後奈良で隠居の後、京都東山に移る際に出家して、帰庵と号した。慶長9年(1604年)2月3日、京都で没したと伝えられる。

 父の死により家督を相続した。母方の縁者・速水守久に招聘されて豊臣秀頼に仕える。大坂の陣に際しては、小田家伝来の旧領回復の約束を取り付け、常陸および全国から小田氏旧臣を多数招聘して豊臣方として参戦した。合戦によって負傷したが、戦後も生き残る。戦後、安芸国広島藩の福島正則に招聘され、客分となったが翌年の元和2年(1616年)2月29日に病死した。
 また、弟の友重は後北条氏家臣の宇都宮為明の養子となり、関ヶ原の戦いに際しては徳永寿昌の陣を借り、その後は親戚の縁を頼りに松平定勝の客分となり、小田氏の家を復興させようと努力する。元和3年(1617年)に自身が名族・小田氏の嫡流であることを主張する「書状草案」を幕府に提出し、身を立てようとしたが叶わず、寛永15年(1638年)に美濃にて死去したとされる。享年53。