<藤原氏>北家 道兼流

F642:留守家元  藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 九条師輔 ― 藤原道兼 ― 留守家元 ― 伊達宗利 F643:伊達宗利

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伊達宗利 伊達宗景

 天正18年(1590年)、宮城郡利府城主・留守政景の長男として生まれる。同年の奥州仕置にて、父・政景は小田原征伐に参陣しなかったため領地を没収され、以降は実家の伊達家に戻って甥の伊達政宗に仕えた。政景は文禄元年(1593年)、政宗より伊達姓を拝領して一門の家格に列し、以後、留守氏は幕末に至るまで伊達姓を称することになる(水沢伊達氏)。
 慶長12年(1607年)、父の死去にともない家督を相続し、磐井郡一関城主となって18,366石を知行する。慶長16年(1611年)には江戸城西ノ丸の貝塚堀普請役を務める。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では先鋒を務めて初陣を飾り、大坂夏の陣でも鉄砲隊を率いて奮闘したが、宗利が40数名しか兵を出さなかったことが政宗の勘気に触れ、身分相応の軍役を負担しなかったことを理由として、翌年元和2年(1616年)2月、10,000石に減封されて胆沢郡金ケ崎城へと移されたが、寛永6年(1629年)江戸城石垣小路の普請を完成させた功を以て、同年8月15日、水沢城への居城移転が認められ、水沢伊達氏は幕末に至るまで同地を所領とした。このため水沢伊達氏の歴代当主を、伊達姓に復帰した政景からではなく、水沢に入封した宗利から数える場合がある。
 宗利は政宗の許しを得て水沢城を修築し、留守氏の旧本拠地であった岩切城や、利府城周辺に残してきた同氏ゆかりの寺社を水沢に移転させた。また、水沢城下の整備に努めたほか、寛永2年(1625年)から飛地の名取郡飯田で最上氏旧臣・小野常信(継室・多与の弟)に新田開発をさせるなど、所領の発展に力を尽くした。
 寛永15年(1638年)8月15日死去。享年49。家臣8名が殉死。嫡男・宗直が家督を相続した。

 慶安3年(1651年)12月7日、水沢伊達氏第3代当主・伊達宗直の長男として伊澤に生まれる。幼名は寅之助。万治2年(1659年)、幕府の証人を務めるために江戸に下向し元服する。藩主伊達綱宗より偏諱を拝領して宗景と名乗る。万治3年(1660年)、江戸城で将軍・徳川家綱に拝謁し、時服を賜る。
 寛文3年(1663年)5月、父・宗直の死去により家督相続し、水沢伊達氏第4代当主となる。寛文7年(1667年)江戸詰めの際に、福岡藩主・黒田光之の3女・悦子と恋仲になり、翌年結婚。悦子は結婚の際に旗本・松平忠久の養女となって宗景に嫁いだ。
 寛文10年(1670年)、伯父の涌谷伊達宗重と登米伊達宗倫の所領紛争が、藩主後見・伊達宗勝の介入で、宗重に一方的に不利な裁定となったことを切っ掛けに、宗重は、宗勝の専横を幕府に訴えることになる。宗景は、伯父・宗重の側の立場から、舅の松平忠久の協力を仰いだ。
 延宝3年(1675年)3月14日仙台で死去した。享年26。嗣子が無く、藩主・綱村の実弟・村任が遺跡を相続した。

伊達村任 伊達村詮

 寛文11年12月19日(西暦では1672年1月)、伯父の岩沼藩主・田村宗良を烏帽子親として元服し、田村顕孝と名乗る。延宝3年(1675年)3月、水沢伊達氏第4代当主・伊達宗景が跡継ぎ無くして死去すると、兄・綱村の意向により水沢伊達氏に入嗣する。閏4月15日、家督を相続して第5代当主となり、名を伊達顕孝と改め、延宝5年(1677年)9月18日には水沢要害への入部にともない、兄・綱村から一字を賜って村任に改名する。同年、三沢宗直の娘・於常(母方の従妹)を正室に迎える。村任は藩主・綱村の同母弟ということもあって家督相続以後たびたび加増され、貞享元年(1684年)3月には知行高が21,635石に達した。これは水沢伊達氏の歴代を通じて最大の石高であった。
 村任は、一気に増大した所領の整備に努め、特に千田堤,寿安堰の改修など治水面に力を注いだ。また、水沢伊達氏の家臣団は旧来の留守氏譜代のみならず、のちに伊達氏,黒川氏,国分氏などから加わった家も多く派閥間抗争が絶えなかったので、元禄3年(1690年)1月11日に『留守家条々』八か条を制定して家中の引き締めを図った。
 元禄8年(1695年)7月6日、兄・綱村から3万石を分与されて中津山藩主となり、村和と改名。水沢伊達氏の家督は甥の吉之助に譲り、水沢を離れて江戸に出府する。同年12月18日、従五位下・美作守に叙任される。
 村和は、元禄9年(1696年)には徳川家綱の17回忌における公家接待役を務めるなどしたが、元禄12年(1699年)9月9日、江戸城へ登城する行列の前を横切った旗本・岡孝常に供回りの者が怪我を負わせたため(土器町事件)、9月26日には謹慎を命じられ、ついには改易に追い込まれた。結局、村和は一度も藩庁・中津山陣屋に入部することがなかった。
 村和の身柄は兄・綱村に預けられることになり、宮城郡野村に逼塞を命じられ、毎年金200両・米2,000石を支給された。逼塞処分は20年に及び、享保4年(1719年)12月18日、ようやく罪を許され、翌享保5年(1720年)9月24日には出家して定岳と号した。
 享保7年(1722年)6月29日死去。享年62。同年9月、長男・村詮が一門の家格に列し、川崎要害を拝領して2,000石を知行し、子孫は幕末まで同地を治めた(川崎伊達氏)。

 元禄10年(1697年)5月17日、中津山藩主・伊達村和の長男として江戸六本木の中津山藩邸にて生まれる。幼名は丑千代。
 元禄12年(1699年)に、父・村和が旗本・岡孝常との刃傷沙汰(土器町事件)により改易されると、父と共に仙台に戻され、享保4年(1719年)に赦免されるまで逼塞を余儀なくされた。
 享保5年(1720年)、村和の出家にともない家督を相続すると、暫定的に一門格の待遇を受け、村和が死去した享保7年(1722年)には正式に一門第九席に列し、柴田郡川崎要害を拝領して知行2,000石を与えられると、翌享保8年(1723年)に川崎に入部し、以後、幕末に至るまで同地を治めた。このため村詮の家系を川崎伊達氏と称する。
 享保16年(1731年)、義弟・村敏を養子に迎え、家督を譲って隠居する。延享元年(1744年)3月14日死去。享年47。

伊達村敏 伊達村景

 川崎伊達家2代当主。正徳3年(1713年)10月16日、岩出山伊達家当主・伊達村泰の2男として誕生。幼名は大次郎。始め親倫と名乗っていたが、のちに仙台藩主の伊達吉村より「中村」の姓と偏諱を与えられ中村村高と名乗る。享保16年(1731年)、跡取りのいなかった義兄で川崎伊達家当主・村詮の隠居に伴い、養子に迎えられて家督を相続し、村敏と名乗る。
 寛延4年(1751年)に、天文学者・佐竹義根の門弟として戸板保佑らと共に、暦にない日食の推算を行っている。
 村敏は涌谷伊達家3代当主・宗元の孫にあたることから、男子がいなかった伊達村胤から、姪の順に準一家・高泉家から婿養子を迎えて家督を相続させる案について相談を受けたが、村敏は家格の釣り合いがとれないとしてこの案に強く反対し、伊達宗家から養子を迎えるべきと主張した。結局、高泉家からの入嗣案は沙汰止みとなり、藩主・伊達宗村の4男の村倫が涌谷家に入った。
 宝暦3年(1753年)12月14日死去。享年41。嫡男・村煕が家督を相続した。 

 水沢伊達家6代(留守氏23代)当主。元禄3年(1690年)10月21日、涌谷伊達家4代当主・伊達村元の二男として誕生。幼名は吉之助。元禄8年(1695年)7月7日、水沢伊達家5代当主・伊達村任が新設された支藩・中津山藩初代藩主に就任すると、この時点では村任に男子がいなかったため、翌8日に村任の甥にあたる吉之助が、形式的に一旦、祖父・綱宗の養子になった後で村任の養子となり、水沢伊達家6代当主となる。吉之助はまだ幼かったため、当面は叔父・亘理元篤が後見役として政務を取り仕切った。この時、村任の代に加増された分の知行5500石が本藩に回収されて16135石となり、これが最終的な水沢伊達家の知行高となった。
 元禄19年(1706年)9月、元服して村景と名乗る。村景の当主在任期間は57年と水沢伊達家歴代で最も長く、正徳4年(1714年)の水沢城の大規模修繕など数々の事業に取り組んだが、水沢城下では享保年間に限っても、3度にわたって大規模な火災が発生し、特に享保20年の火災では168戸を焼失した。これらの火災が発生するたびに、水沢城下の復興費用調達のため仙台本藩蔵元の大文字屋から多額の借金を余儀なくされ、苦しい領地経営を強いられた。なお、借金の返済は孫の村儀の代までかかっている。村景は火事対策の一環として家臣・佐々木佐五平に命じて民間の消防組「臥煙組」を組織させたが、その記念行事が日高火防祭の起源であるともいわれる。
 宝暦3年(1753年)1月27日死去。享年64。嫡男・村利が家督を相続した。