F642:留守家元 | 藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 九条師輔 ― 藤原道兼 ― 留守家元 ― 伊達宗利 | F643:伊達宗利 | ● |
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伊達宗利 | 伊達宗景 |
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天正18年(1590年)、宮城郡利府城主・留守政景の長男として生まれる。同年の奥州仕置にて、父・政景は小田原征伐に参陣しなかったため領地を没収され、以降は実家の伊達家に戻って甥の伊達政宗に仕えた。政景は文禄元年(1593年)、政宗より伊達姓を拝領して一門の家格に列し、以後、留守氏は幕末に至るまで伊達姓を称することになる(水沢伊達氏)。 |
慶安3年(1651年)12月7日、水沢伊達氏第3代当主・伊達宗直の長男として伊澤に生まれる。幼名は寅之助。万治2年(1659年)、幕府の証人を務めるために江戸に下向し元服する。藩主伊達綱宗より偏諱を拝領して宗景と名乗る。万治3年(1660年)、江戸城で将軍・徳川家綱に拝謁し、時服を賜る。 |
伊達村任 | 伊達村詮 |
寛文11年12月19日(西暦では1672年1月)、伯父の岩沼藩主・田村宗良を烏帽子親として元服し、田村顕孝と名乗る。延宝3年(1675年)3月、水沢伊達氏第4代当主・伊達宗景が跡継ぎ無くして死去すると、兄・綱村の意向により水沢伊達氏に入嗣する。閏4月15日、家督を相続して第5代当主となり、名を伊達顕孝と改め、延宝5年(1677年)9月18日には水沢要害への入部にともない、兄・綱村から一字を賜って村任に改名する。同年、三沢宗直の娘・於常(母方の従妹)を正室に迎える。村任は藩主・綱村の同母弟ということもあって家督相続以後たびたび加増され、貞享元年(1684年)3月には知行高が21,635石に達した。これは水沢伊達氏の歴代を通じて最大の石高であった。 |
元禄10年(1697年)5月17日、中津山藩主・伊達村和の長男として江戸六本木の中津山藩邸にて生まれる。幼名は丑千代。 |
伊達村敏 | 伊達村景 |
川崎伊達家2代当主。正徳3年(1713年)10月16日、岩出山伊達家当主・伊達村泰の2男として誕生。幼名は大次郎。始め親倫と名乗っていたが、のちに仙台藩主の伊達吉村より「中村」の姓と偏諱を与えられ中村村高と名乗る。享保16年(1731年)、跡取りのいなかった義兄で川崎伊達家当主・村詮の隠居に伴い、養子に迎えられて家督を相続し、村敏と名乗る。 |
水沢伊達家6代(留守氏23代)当主。元禄3年(1690年)10月21日、涌谷伊達家4代当主・伊達村元の二男として誕生。幼名は吉之助。元禄8年(1695年)7月7日、水沢伊達家5代当主・伊達村任が新設された支藩・中津山藩初代藩主に就任すると、この時点では村任に男子がいなかったため、翌8日に村任の甥にあたる吉之助が、形式的に一旦、祖父・綱宗の養子になった後で村任の養子となり、水沢伊達家6代当主となる。吉之助はまだ幼かったため、当面は叔父・亘理元篤が後見役として政務を取り仕切った。この時、村任の代に加増された分の知行5500石が本藩に回収されて16135石となり、これが最終的な水沢伊達家の知行高となった。 |