<藤原氏>北家 道兼流

F641:藤原道兼  藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 九条師輔 ― 藤原道兼 ― 留守家元 F642:留守家元

リンク F643
留守家冬 留守景宗
 家次の代には、観応の擾乱の余波で、正平6年(1351年)畠山高国と吉良貞家の奥州二探題が争う岩切城の合戦が起こった。合戦は吉良氏の大勝で、負け大将の畠山氏に味方した留守家次は討たれ、余目・宮城などの一族ともどもほぼ全滅という悲運に見舞われ、留守氏は衰退してしまった。その頃の留守氏は新田城を本拠としていたようだが、文和元年(1352年)、足利尊氏から宮城郡など所領を安堵されて勢いを盛り返し、九代淡路守以降は高森城に拠った。その後、家明の代に、ふたたび吉良・畠山氏の抗争に巻き込まれ、長世保に出陣したが敗れてのちは大崎氏の支配下に入った。

 延徳4年(1492年)、伊達氏13代当主・伊達尚宗の次男として誕生。母は積翠院(上杉房定養女、上杉房実娘)。
 嫡男を失くした留守氏15代当主・留守郡宗の婿養子となる。明応4年(1495年)、郡宗の死去により家督を継いで当主となる。永正3年(1506年)、小鶴で国分氏と戦い勝利した。伊達家の内訌である天文の乱では甥の伊達晴宗に協力し、実兄・稙宗に与した国分氏と戦った。
 天文23年(1554年)に死去。跡を嫡男・顕宗が継いだ。
 3男・大條宗家の直系の子孫が、お笑いコンビ「サンドウィッチマン」の伊達みきおである。

留守顕宗 留守政景

 永正16年(1519年)、留守氏16代当主・留守景宗の嫡男として誕生。
 天文23年(1554年)、父の死去により家督を継いで当主となる。留守氏は天文の乱において伊達晴宗方の主力として戦ったが、顕宗は晴宗と対立し、弘治2年(1556年)に晴宗の支援を受けた留守氏一族・村岡常継の攻撃を受ける。この時は常継の妹を側室に迎えて講和を成立させたが、以後も晴宗からの圧迫は止まず、これに同調した留守氏家臣団の一部の圧力を受け、永禄10年(1567年)には晴宗の3男・政景に家督を譲ることを強いられた。その際に常継の妹との間に生まれた実子・宗綱は神楯城主・高城周防守の養子として送り出され、顕宗は南宮館に隠退した。
 天正14年(1586年)7月17日死去。享年68。

 天文18年(1549年)、伊達晴宗の3男として誕生。永禄10年(1567年)、父・晴宗の政略によって留守顕宗の養子となり、奥州の名族・留守氏を継ぐことになった。その後、村岡氏や余目氏の反抗を鎮圧すると共に、兄・輝宗や甥・政宗を補佐し、実家の伊達氏の勢力拡大に貢献し、各地を転戦する。
 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せず、所領を没収された。同年、岳父・黒川晴氏が政宗のために拘禁されると、その助命を嘆願し許された。その後、文禄の役にて朝鮮へ渡海して出陣した。帰国後は正式に伊達氏一門に加わる。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、政宗の命により伊達軍総大将として、上杉景勝の攻撃を受けていた最上義光の救援に赴いた。小白川に着陣し、撤退する上杉軍を率いた直江兼続と交戦。戦後の伊達政宗の書状によると伊達勢で80~100の首級を取り、一門でもある大條実頼が負傷するほどの激戦であったという(長谷堂城の戦い)。
 後に政宗より伊達姓に復することを許され、慶長9年(1604年)、一関2万石を与えられた。
 慶長12年(1607年)死去。享年59。菩提寺は岩手県奥州市水沢の大安寺。同寺には4人の殉死者と共に描かれた、極めて珍しい肖像画が残る。