<藤原氏>北家 閑院流

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徳大寺実能 徳大寺公能

 長治元年(1104年)に従五位下に叙せられる。元永元年(1118年)、璋子が鳥羽天皇の中宮になると中宮権亮、天治元年(1124年)璋子が院号宣下を受けると待賢門院別当になる。璋子の兄であることから重用され、保安3年(1122年)に権中納言に任じられた後は、左兵衛督,右衛門督,検非違使別当と累進。長承2年(1133年)には長女・幸子(22歳)を藤原頼長(14歳)と結婚させることで、摂関家と関係を強めた。保延2年(1136年)に正二位権大納言となるが、永治元年(1141年)の崇徳天皇の退位と康治元年(1142年)の待賢門院出家により、閑院流は低迷期に入る。
 閑院流の中心は異母兄の三条実行だった。頼長の支援を受けた実能は、実行を名誉職である太政大臣に棚上げして空席を作り、久安6年(1150年)に内大臣となった。久寿2年(1155年)に幸子が逝去すると頼長から離れて美福門院に接近し、皇太子・守仁親王(後の二条天皇)の東宮傅になるなど変わり身の早さを見せる。保元元年(1156年)9月、左大臣となる。保元2年(1157年)正月に従一位に叙せられるが、7月に出家して法名を真理と称した。9月に仁和寺の小堂(徳大寺)で薨去。歌人として有名で、かつての家人・西行と親交が深かった。 

 越中守,右近衛少将,左近衛中将,蔵人を経て、保延3年(1137年)に崇徳天皇の蔵人頭、翌年には参議となる。閑院流全盛の時代で権中納言,中納言,右衛門督,検非違使別当を歴任するが、崇徳天皇退位と待賢門院出家の影響を受けて昇進は停滞する。後白河天皇が践祚すると、娘の忻子は中宮となり、後白河帝在位中の保元元年(1156年)に右近衛大将、保元2年(1157年)に権大納言と急速に昇進する。
 二条天皇の要請による藤原多子の再入内に対しては、『平家物語』では積極的、『今鏡』では困惑と、態度に違いがある。永暦元年(1160年)7月に正二位・右大臣となるが、翌年8月に現職のまま47歳で薨去した。
 多芸多才で管弦・歌・朗詠等に優れ、歌に関しては義兄の藤原俊成や、かつての家人・西行と交渉が深い。『詞花和歌集』以下、勅撰集に32首が入集する。


徳大寺忻子
 久寿2年(1155年)に入内し、後白河天皇即位と共に従四位上女御となる。保元元年(1156年)、中宮に冊立。保元3年(1158年)、後白河天皇譲位。平治元年(1159年)、姝子内親王が二条天皇中宮に立后したのに伴い皇后宮。承安2年(1172年)、皇太后。承元3年(1209年)、76歳で崩御。『今鏡』は美貌であったと伝えるが、後白河天皇の寵愛は薄く子女もなかった。