寛和2年(986年)、従五位下に叙爵。侍従や左兵衛佐・右近衛少将等の武官を務め、この間の正暦6年(995年)従四位下に叙せられる。長徳2年(996年)に春宮権亮に任ぜられ、姉・娍子が春宮妃として入内していた皇太子・居貞親王(のちの三条天皇)に仕える一方、右馬頭・讃岐権守を歴任する。 寛弘8年(1011年)6月の三条天皇の即位と同時に蔵人頭、同年12月従四位上・参議に叙任され、翌寛弘9年(1012年)正月には前春宮権亮の功労として一挙に三階昇進して従三位に叙されるなど、三条朝に入ると急速に昇進を果たす。同年4月には姉・娍子が三条天皇の皇后に立てられることとなり、通任は皇后の弟として立后の儀式に参加する。しかし、左大臣・藤原道長の妨害により、当時30人近くいた公卿の内で儀式が行われる内裏に集まったのは、通任のほかに藤原実資,藤原隆家,藤原懐平の3名だけという有様だった。また、長和2年(1013年)に娍子が御所に参内した際に、通任がその仕切を行ったことから、三条天皇から藤原道長に対して通任の正三位への昇叙が働きかけられた。しかし道長は、元来、娍子の庇護者は弟の藤原為任であり、通任はその代理をしたに過ぎない、と指摘して天皇の姿勢を批判し、通任の昇進は沙汰止みとなった。 長和5年(1016年)、三条天皇の退位・後一条天皇の即位に伴い、娍子所生の敦明親王が立太子し、通任は皇太子の外叔父となるが、翌寛仁元年(1017年)、三条上皇の崩御後間もなく敦明親王は皇太子を辞退してしまった。治安3年(1023年)に正三位に昇進したのち、美作守,播磨権守,美作権守と地方官を兼帯し、長元8年(1035年)権中納言に至る。長暦3年(1039年)6月薨去。享年66。
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後一条朝の寛仁5年(1021年)、従五位下に叙爵し美濃権守に任官する。万寿元年(1024年)、侍従に遷ると、右兵衛佐を経て、万寿5年(1028年)に従五位上・左近衛少将に叙任された。長元4年(1031年)正五位下に昇叙されるが、長元6年(1033年)従四位下に叙せられて、少将を解かれたとみられる。 その後しばらく任官状況ははっきりしないが、後朱雀朝に入ると昇進し、長久3年(1042年)兵部権大輔に任ぜられている。 寛徳2年(1045年)、後冷泉天皇が践祚すると、師成は備中守に遷り、天喜4年(1056年)丹後守,康平5年(1062年)近江守と後冷泉朝では受領を歴任。康平6年(1063年)2月に太宰大弐に任ぜられると、同年7月に従三位の叙位を受けて公卿に列し、8月には九州への赴任を賞されて正三位に昇叙されている。 治暦3年(1067年)まで大弐を務め、翌年正月に成功により従二位に叙せられる。同年4月に後冷泉天皇が重態に陥る中で藤原歓子が皇后に冊立されると、師成は皇后宮権大夫に任ぜられた。 後三条朝では昇進の機会がなかったが、白河朝に入ると延久5年(1073年)正二位、承保2年(1075年)に参議に叙任されている。承暦4年(1080年)10月に官職を辞し官界から退く。永保元年(1081年)7月28日に腰の熱物に対して灸治を行っているが、治療の甲斐なく8月5日に出家し、9月1日薨去。享年73。
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