| F488:藤原顕頼 | 藤原高藤 ― 甘露寺為輔 ― 藤原宣孝 ― 坊城為房 ― 藤原顕隆 ― 藤原顕頼 ― 葉室宗頼 | F490:葉室宗頼 |

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| 葉室宗頼 | 葉室宗行 |
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父の鍾愛を受けて育ち、叔父の成頼の養子となって、4男でありながら文書を伝えられ口伝を受けて家を継承した。しかし、同母兄の光雅が後白河法皇に重用されたのに対し、宗頼はたびたびの顕官に漏れ、養和2年(1182年)に四位に叙されたものの官職に就けず、永らく「已に棄て置く人の如し】という境遇にあった。 |
建保2年12月(1215年1月)に参議に任ぜられ、建保6年(1218年)正三位・権中納言に叙任。承久3年(1221年)に起きた承久の乱では、後鳥羽上皇とともに北条義時の追討を図ろうとするも失敗におわり、鎌倉に護送される最中の駿河で斬られる。死後700年以上経った1927年(昭和2年)12月に従二位が贈られている。 |
| 葉室光忠 | |
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文正元年(1466年)3月右少弁、12月従五位上に叙任されたが、応仁の乱で父・教忠とともに西軍へ属したため、早くも翌年1月解官されている。その後、美濃に下向し、在国中に足利義視・義材父子との信頼関係を築いたとみられる。文明11年(1479年)4月父の懇願から勅免が下り、再び京都での出仕を果たし、10月右中弁となる。同12年(1480年)6月に蔵人に補された後は累進して、長享2年(1488年)9月弁官兼任のまま参議として公卿に列し、延徳元年(1489年)12月従三位に叙されている。 |