<藤原氏>北家 高藤流

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葉室宗頼 葉室宗行

 父の鍾愛を受けて育ち、叔父の成頼の養子となって、4男でありながら文書を伝えられ口伝を受けて家を継承した。しかし、同母兄の光雅が後白河法皇に重用されたのに対し、宗頼はたびたびの顕官に漏れ、養和2年(1182年)に四位に叙されたものの官職に就けず、永らく「已に棄て置く人の如し】という境遇にあった。
 文治元年(1185年)12月、源頼朝の廟堂改革要求により解官された高階泰経の後任として大蔵卿に推挙されたことが転機となり、宗頼は30歳を過ぎてようやく表舞台に出ることになった。文治2年(1186年)正月からは九条兼実に仕え、執行家司として九条家の家政を切り盛りし「九条殿のならびなき後見役」と呼ばれるほどの信任を受けた。文治5年(1189年)には蔵人頭となり、兼実の施政を実務面で支えている。しかし、兼実の信条は保守的であり、摂関家の家司とみなされた勧修寺流は冷遇された。腹心の宗頼も例外ではなく、参議昇進においては閑院流の藤原実明や花山院流の中山兼宗に先を越されている。なかなか昇進できなかった宗頼だったが、建久6年(1195年)12月9日、藤原定長が死去した補充としてようやく参議・左大弁となった。
 建久七年の政変で兼実は失脚するが、政治の主導権を握った土御門通親は宗頼の実務能力を高く評価して厚遇し、宗頼は建久9年(1198年)に権中納言、正治元年(1199年)に検非違使別当・左衛門督、建仁2年(1202年)には権大納言と急速に昇進する。宗頼と通親は個人的にも提携を強め、宗頼は通親の義妹・卿局を妻に迎え、通親の嫡子・通光を婿とした。通親の宗頼に対する信頼は厚く、通親死去の折には通光の岳父として宗頼が遺産を管理した。建仁3年(1203年)に50歳で死去。その人柄は「才幹優長、心操穏便」であったという。

 建保2年12月(1215年1月)に参議に任ぜられ、建保6年(1218年)正三位・権中納言に叙任。承久3年(1221年)に起きた承久の乱では、後鳥羽上皇とともに北条義時の追討を図ろうとするも失敗におわり、鎌倉に護送される最中の駿河で斬られる。死後700年以上経った1927年(昭和2年)12月に従二位が贈られている。
葉室光忠

 文正元年(1466年)3月右少弁、12月従五位上に叙任されたが、応仁の乱で父・教忠とともに西軍へ属したため、早くも翌年1月解官されている。その後、美濃に下向し、在国中に足利義視・義材父子との信頼関係を築いたとみられる。文明11年(1479年)4月父の懇願から勅免が下り、再び京都での出仕を果たし、10月右中弁となる。同12年(1480年)6月に蔵人に補された後は累進して、長享2年(1488年)9月弁官兼任のまま参議として公卿に列し、延徳元年(1489年)12月従三位に叙されている。
 延徳2年(1490年)1月、足利義材が後継将軍に内定すると、その意思を奉行衆に仲介する申次として活動を始め、室町幕府における政務決裁(御前沙汰)に関与する。申次を依頼した当事者から礼銭収入を得て財力を蓄えたらしく、同年8月には義視・義材父子の御座所である通玄寺内の新邸に移り、10月には義材と三条西実隆の奏請によって権中納言に昇進した。その拝賀は殿上人10人が従うなど「希代壮観」であったという。同3年(1491年)8月、六角高頼討伐のために義材の近江親征に従軍し、参陣中の12月に正三位に昇叙されたが、翌年(1492年)12月義材の凱旋に伴って帰洛している。明応2年(1493年)2月1日、義材の強引な奏請によって上首18人(現任8人、前官10人)を超越して権大納言に昇進。これは四条隆量を仕方なく罷免した上での措置であり、当時の公家社会では目を驚かすことであった。翌日に光忠は禁裏で猿楽を主催し、昇進の御礼として太刀などを贈っている。それから間もない2月7日には畠山基家討伐のために義材の河内親征が必定となり、15日、光忠は再び従軍した。
 ところが、義材の留守の機会を捉え、同年4月22日に細川政元が清晃(後の足利義澄)を擁立してクーデターを起こした(明応の政変)。たちまち側近から離反された義材は閏4月25日に河内正覚寺で政元の部将・上原元秀の陣に投降し、29日に光忠は元秀によって殺害された。享年43。政元でさえ光忠の申次を通さずには義材に具申できない有様であり、このような将軍側近による政務の独占が旧来の幕臣層から恨みを買ったのであろう。なお、邸宅も細川方のために破却されている。
光忠は廷臣として宮中行事に参列して官職を望む一方、公家生活を脱して武家側にも手を伸ばし、短期間ながら、摂家・寺院・管領などを凌ぐ権勢を握っていた。このことが公武双方から異端視されたのであるが、中世の封建的秩序が破壊され始めるという戦国時代初期の風潮に乗った特異な公家であったと言える。