| F488:藤原顕頼 | 藤原高藤 ― 甘露寺為輔 ― 藤原宣孝 ― 坊城為房 ― 藤原顕隆 ― 藤原顕頼 ― 葉室光雅 | F489:葉室光雅 | ● |


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| 葉室光雅 | 葉室光親 |
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早くから後白河法皇に近臣として仕える一方、実務能力に優れたことから多方面から起用される。治承2年(1178年)12月に誕生した言仁親王(のちの安徳天皇)の職事となり、法皇と平清盛の対立による治承三年の政変後は清盛の命により新関白・近衛基通の執事を務める。法皇と木曽義仲の対立による法住寺合戦後に松殿師家の年預となる。 |
寿永2年(1183年)六位蔵人となり、まもなく叙爵され、のち豊前守・兵部権大輔・左衛門権佐・防鴨河使などを歴任する。正治2年(1200年)右少弁に任ぜられると、翌建仁元年(1201年)権左少弁に昇進し五位蔵人を兼ね、元久元年(1204年)にはさらに左衛門権佐を兼任して三事兼帯となった。建永元年(1206年)蔵人頭・右大弁を経て、承元2年(1208年)従三位・参議に叙任され公卿に列した。 |
| 葉室光俊 | 葉室定嗣 |
| 1220年(承久2年)、右少弁蔵人に任じられる。翌1221年、承久の乱敗北により、父・光親は死罪、光俊も連座して筑紫に配流されたが、1226年(嘉禄2年)以降は中央に返り咲き、後堀河院院司別当に至る。正四位下・右衛門権佐,右大弁。1236年(嘉禎2年)出家、法号真観。歌人としては、はじめ藤原定家に師事し、『新勅撰和歌集』で勅撰集入集を果たすが、やがて正三位知家(藤原知家)らと共に、御子左派への対抗勢力を形成。『現存和歌六帖』『秋風和歌集』等の編纂、『難続後撰』等の著述によってその立場を主張した。1260年(文応元年)以降、将軍・宗尊親王の歌の師として、鎌倉歌壇にも重きをなす。歌枕の研究に『風土記』を活用したことでも知られる。また、宗尊親王の後援を背景として、後嵯峨院の命により『続古今和歌集』撰者に加えられる等、中央歌壇にも影響力を持ったが、親王の失脚に伴い、勢いを失った。 |
建保2年(1214年)に叙爵。以後但馬,美濃などの国司や蔵人頭を歴任し、仁治3年(1242年)に従三位。宝治2年(1248年)には正三位・権中納言に昇る。後嵯峨上皇の院司として重用され、院と六波羅探題との間に立って両者の調整役を務めた。 |