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藤原隆能 | 土佐光信 |
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平安時代後期の絵師。左衛門佐・藤原清綱または権中納言藤原清隆の子。正五位下・主殿頭,絵所預。絵所一流の祖。久寿元年(1154年)には鳥羽金剛心院の扉を描いているほか、『源氏物語絵巻』の作者ともいわれている。 |
室町幕府8代将軍・足利義政の御教書によると、文明元年(1469年)10月に絵所預に輔任されている。明応4年(1495年)正五位下・右近衛将監の叙任を受け、明応5年(1496年)12月5日に刑部大輔に転任する旨の口宣案が出され、明応10年(1501年)2月9日には従四位下に昇叙し、絵師としては最高の位を得た。 |
土佐光茂 | 土佐光元 |
『地下家伝』に収録された系図の注釈によると、明応5年(1496年)の誕生とされ、これが正しければ、光信60歳代の子になる。大永2年(1522年)から永禄12年(1569年)までの記録が残っており、大永3年(1523年)には既に光信の跡を継ぎ絵所預に補任されており、左近将監を経て、享禄5年(1532年)正五位下・刑部大輔に叙任され、天文年間には従四位下に至った。 |
土佐光茂の長男として生まれる。天文10年(1541年)従五位下・左近衛将監に叙任される。永禄3年11月11日(1560年12月8日)九条稙通が叔父・三条西公条による源氏物語講釈聴講終了を記念し、光元に「紫式部石山詣図」を描かせる。他にも、宮中に向けて扇面画なども手掛けた。永禄12年(1569年)8月、木下藤吉郎の但馬攻めに加わったものの、その陣中で死去した。享年40。光茂は、弟子の玄二(土佐光吉)に土佐家の所領や粉本を譲り3人の遺児の養育を依頼するが、この遺児のその後は不明で土佐家直系は絶えた。 |
土佐光吉 | 土佐光則 |
土佐光茂の次子と言われるが、実際は門人で玄二(源二)と称した人物と考えられる。師・光茂の跡取り土佐光元が木下秀吉の但馬攻めに加わり、出陣中戦没してしまう。そのため光吉は、光元に代わって光茂から遺児3人の養育を託され、土佐家累代の絵手本や知行地,証文などを譲り受けたとみられる。以後、光吉は剃髪し久翌(休翌)と号し、狩野永徳や狩野山楽らから上洛を促されつつも、終生堺で活動した。堺に移居した理由は、近くの和泉国上神谷に絵所預の所領があり、今井宗久をはじめとする町衆との繋がりがあったことなどが考えられる。光元の遺児のその後は分からないが、光元の娘を狩野光信に嫁がせている。 |
光吉の時代から堺に移り活躍する一方、正月に仙洞御所へしばしば扇絵を献上したが、官位を得るまでには至らなかった。寛永6年(1629年)から11年(1634年)には、狩野山楽,山雪,探幽,安信といった狩野派を代表する絵師たちに混じって「当麻寺縁起絵巻」の制作に参加している。晩年の52歳頃、息子の土佐光起を伴って京都に戻った。 |
土佐光起 | 土佐光祐 |
寛永11年(1634年)18歳で父に従い京都に移り、承応3年(1654年)38歳で従五位下・左近衛将監に叙任されるが、この時に永禄12年(1569年)の土佐光元戦死以来失われた朝廷の絵所預職に85年ぶりに復帰したと考えられる。この職を取り戻すのは土佐家の悲願であり、光起を「土佐家中興の祖」と呼ぶのもこれ故である。同年からの承応度京都御所造営では如慶と共に参加し、襖絵や杉戸絵を制作した。後水尾天皇の覚えがめでたく、光起は改めて自邸に絵所の称号を勅許され、「勅許画院」の印象を用いるのを許可された。のちの延宝9年(1681年)息子・光成に絵所預の職を譲り、5月29日に法橋となり剃髪、法名を常昭とし、春可軒と号す。貞享2年(1685年)には法眼となった。元禄4年(1691年)、京都で没。享年75。墓所は知恩寺。容貌は祖父・土佐光吉に似ていたといい、子の光成による肖像画が残る。 |
幼少より画技を認められていたが、宝永7年(1710年)数え11歳の時、祖父・土佐光成、その4ヶ月後に父光祐が相次いで亡くなり、幼少にもかかわらず従六位上・絵所預となって家督を継ぐことになる。正徳6年(1716年)17歳で正六位下・左近衛将監、享保10年(1725年)26歳で従五位下、翌年大蔵少輔、享保16年(1731年)32歳で従五位上、元文2年(1737年)38歳で正五位下、元文4年(1739年)弾正少忠、寛保3年(1743年)左京少進と順調に位階を上げており、以後、土佐家歴代では光芳が先例となって安定した位につくようになる。また土佐光起以来、絵所預には任じられてきたものの安定した家禄はなく、仕事に応じた画料のみ受け取る状態だった。しかし、享保9年(1724年)光芳の嘆願が認められ、御月扇料として御台所10人扶持方となり安定した財政基盤を得ることになる。更に、幼少の経験から、長男・光淳が本家を継いだ後、次男・光貞に分家させ組織を拡大する方策を取った。これらの方策により土佐家は以後安定した基盤を得ることになり、幕末まで続くことになる。 |