安元元年(1175年)叙爵、安元3年(1177年)侍従。阿波介・越中守の地方官を併任し、建久4年(1193年)正月に侍従を辞任、正五位下に昇叙。正治3年(1201年)正月に従四位下。元久3年(1206年)宮内卿。承久3年(1220年)まで宮内卿を務め、辞任ののちに正三位に叙せられた。嘉禎元年(1235年)従二位。嘉禎2年12月(1237年1月)病を得て79歳で出家した。出家後は摂津国四天王寺に入り、夕陽丘より見える「ちぬの海(大阪湾)」に沈む夕日を好み、その彼方にある極楽へいくことを望んだ。現在の大阪市天王寺区夕陽丘町5に家隆塚(伝藤原家隆墓)がある。 和歌を藤原俊成に学んだ。寂蓮の婿だったという説もある。歌人としては晩成型であったが、『六百番歌合』『正治百首』などに参加して、やがて同時代の藤原定家と並び称される歌人として、御子左家と双璧と評価されるに至った。『古今著聞集』によると後鳥羽上皇が和歌を学びはじめた頃、藤原良経(後京極殿)に「和歌を学ぼうと思っているのだが誰を師としたらよいだろうか」と尋ね、良経は家隆を推薦した。院歌壇の中心メンバーであり、後鳥羽院が承久の乱で隠岐に流された後も、遠所から題を賜って和歌を送ったりしている。歌風は平明で幽寂な趣きと評価される。また、晩年になってからも作歌意欲はいっこうに衰えず、その多作ぶりは有名で、生涯に詠んだ歌は六万首もあったと言われている。 歌集の『壬二集』は六家集の一つ。『千載和歌集』(5首)以下の勅撰和歌集に281首が採録されており、『新勅撰和歌集』には最多の43首が収められている。息子の藤原隆祐と娘の土御門院(承明門院)小宰相も歌人。
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保延7年(1141年)従五位下・備中守に叙任される。久安4年(1148年)に従五位上に進み、久安6年(1150年)但馬守に任ぜられる。 仁平2年(1152年)加賀守に任ぜられる。仁平3年(1153年)正五位下に叙され、久寿元年12月(1155年2月)に右兵衛権佐を務め、春宮権大進を兼ねる。母が乳母を務めた近衛天皇の近臣の1人で、天皇崩御の際に天皇の居所である近衛殿から天皇の父母(鳥羽法皇・美福門院)のいる鳥羽殿に駆け込み、崩御の一報を伝えている。保元2年(1157年)従四位下・皇太后宮亮に叙任されると、丹波守,三河守,越中守,伊予守,備中守と各国の受領を歴任。応保2年(1162年)右馬頭、永万2年(1166年)左京大夫をそれぞれ兼任する。仁安2年(1167年)、後白河上皇の院別当を務め、法勝寺の千僧読経において禄を賜っている。その一方で、後白河上皇の院近臣でありながら、二条天皇期には天皇親政派であったことが知られ、二条天皇による伊勢神宮遥拝の再興に定隆が深く関与していた。 仁安3年(1168年)従三位・皇太后宮亮に叙任され公卿に列す。仁安4年(1169年)周防権守を兼ねるが、嘉応2年(1170年)10月2日に俄かに薨去した。享年37。
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