<藤原氏>北家 長良流

F405:藤原長良  藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原真楯 ― 藤原冬嗣 ― 藤原長良 ― 藤原清経 F415:藤原清経

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藤原清経 藤原元名

 衛門少尉・大尉を経て、貞観11年(869年)従五位下に叙爵し、甥に当たる皇太子・貞明親王の春宮大進に任ぜられた。貞観18年(877年)の貞明親王の即位(陽成天皇)後まもなく、従五位上・右近衛権少将次いで左近衛権少将に叙任される。陽成朝では近衛少将に蔵人を兼ねて天皇の身近に仕え、この間元慶6年(882年)正五位下に叙せられている。
 光孝朝から宇多朝にかけても引き続き左近衛少将・右近衛中将と武官を務め、仁和2年(886年)従四位下、寛平6年(894年)従四位上に昇叙されている。
 寛平9年(897年)醍醐天皇の即位後しばらくして右兵衛督に転じ、昌泰3年(900年)には先に参議となっていた甥の忠平の譲りにより参議に任ぜられ公卿に列している。延喜4年(904年)正四位下。
 延喜15年(915年)正月に従三位に昇るが、同年5月22日薨去。享年70。

 

 醍醐朝前期に兵庫助を務め、延喜14年(914年)従五位下に叙爵し、延喜17年(917年)玄蕃頭に任ぜられる。延喜21年(921年)能登守に遷ると、延長5年(927年)備後守と醍醐朝後期は地方官を務め、延長5年(927年)治国の功労により従五位上に叙せられた。
 その後も、承平2年(932年)伊予守,承平6年(936年)大和守,天慶5年(942年)3月29日美濃権守,天慶10年(947年)丹波守と村上朝前期まで約30年の長きに亘って地方官を務め、この間の承平7年(937年)正五位下、天慶4年(941年)従四位下と昇進している。
 元名が伊予守として赴任した際に伴い、伊予掾に任じたのが従兄弟(大宰少弐・藤原良範)の子にあたる藤原純友である。血筋は悪くないが父を早くに亡くしていた純友は、縁者の元名に引き立てられたとも言える。元名が任期を終えて帰京した後も弟・純乗らと共に現地に留まり勢力を拡大、瀬戸内から大宰府・北九州を巻き込んだ承平天慶の乱へと繋がっていく。
 元名は天暦6年(952年)従四位上・民部大輔に叙任されて京官に復すが、翌天暦7年(953年)には早くも山城守として地方官に戻る。天暦8年(954年)大宰大弐に任ぜられ、大弐任官のまま天徳2年(958年)74歳にして参議に任ぜられ公卿に列す。議政官となっても、大弐に次いで讃岐守と地方官を兼帯したほか、宮内卿も兼ね、この間の応和2年(962年)正四位下に至る。
 康保元年(964年)2月に致仕し、8月に出家。法名は尋覚。康保2年(965年)4月18日薨去。享年81。

藤原文範 藤原国章

 朱雀朝の天慶3年(940年)文章生に補せられると、翌天慶4年(941年)少内記兼六位蔵人に任官。式部丞を経て、天慶8年(945年)従五位下・摂津守に叙任された。またこの間、天慶6年(943年)に藤原敦忠が没するまで、敦忠の家令も勤めている。生前の敦忠は北の方(藤原玄上の娘)を非常に愛していたが、ある時北の方に対して、自らが短命でまもなく死ぬであろうこと、死後には北の方が文範と夫婦になるであろうことを予言し、敦忠死後にその通りになったという。
 村上朝に入ると、天暦4年(950年)従五位上・右衛門権佐として京官に復す。天暦6年(952年)左少弁に任ぜられると、弁官を務めながら順調に昇進していく。村上朝末の康保3年(966年)蔵人頭兼右大弁に任ぜられると、翌康保4年(967年)参議に任ぜられ公卿に列した。
 議政官として左右大弁を兼帯し、安和2年(969年)円融天皇の即位に伴って正四位下に叙せられた。また、安和3年(970年)には民部卿を兼帯し、これを卒去まで約30年近くに亘って務めている。天禄2年(971年)上﨟の参議5名(源重信,源重光,藤原兼通,藤原済時,藤原斉敏)を超えて従三位・権中納言に昇任され、約20年近くに亘る弁官の職を離れた。また同年には真覚を開山として大雲寺を創建している。その後も天禄3年(972年)中納言、貞元2年(977年)正三位と昇進を続けた。
 花山朝では昇進はなかったが、一条朝の寛和2年(987年)に漸く従二位に昇った。永延2年(988年)に次男の為雅を備中守に任官させる代わりに、自身は中納言を辞任。平安京郊外の北山の小野郷で荏苒と晩年を過ごし、長徳2年(996年)3月28日に薨去した。享年88。

 朱雀朝末の天慶8年(945年)文章生となる。円融朝では近江守,太宰大弐などの地方官や、春宮・師貞親王の春宮権亮を務めた。大弐在職中の貞元2年(977年)には前年に発生した大地震で倒壊した八省院廊を再建した功労で従三位に叙せられ公卿に列す。円融朝末の天元5年(982年)皇太后宮権大夫に任ぜられ、皇太后・昌子内親王に仕えた。
 花山朝の寛和元年(985年)6月23日薨去。享年は67または75。

藤原景舒 藤原景斉

 天徳4年(960年)天徳内裏歌合で念人を務めた童子の一人として名が見える永観2年(984年)娘を五節舞の舞姫として殿上に献じている。
 円融朝から一条朝にかけて、伊賀守,加賀守,播磨守など受領を歴任。六位蔵人を務めていた時期もあり、天皇側近の受領階層だったことが伺える。また兄弟の景斉とともに藤原実資の家人でもあった。
 一条朝前期の永延3年(989年)播磨守であった景舒は、伊予守・源清延と交替する形で伊予守に遷る。この人事は、寛弘7年(1010年)に尾張守・大江匡衡と丹波守・高階業遠が官職を交替した際に先例として挙げられている。しかし、翌永祚2年(990年)には藤原道頼が伊予守に任ぜられており、景舒は短期間で伊予守を去ったとみられる。

 

 円融朝にて左近衛将監を経て、天延2年(974年)ごろ巡爵により叙爵(従五位下)し、紀伊守に任官した。
 一条朝初頭に若狭守を務めるが、この間の永延2年(988年)自邸を藤原保輔に襲われ物品を盗まれた。また、任期終了後の永祚元年(989年)末には本任放還が未完了であることを理由に、前備前守・藤原理兼や前土佐守・藤原時清とともに殿上簡を削られている。
 正暦3年(992年)頃、河内守と再び受領に任ぜられたのち、長徳4年(998年)太皇太后宮権亮に任ぜられ、太皇太后・昌子内親王に仕える。長保元年(999年)昌子内親王が崩御した後、長保4年(1002年)頃から寛弘2年(1005年)頃まで大和守を務めた。その後10年以上に亘って散位となるが、後一条朝の寛仁2年(1018年)頃に備前権守に任ぜられ受領に復帰した。治安2年(1022年)6月11日に出家。
 右大臣・藤原実資と極めて親密であったことを『小右記』の随処に書いており、景斉は実資の家司であったと考えられる。治安3年(1023年)7月17日に景斉が卒去すると、実資は忠時宿禰(家司の石作忠節)を景斉の後家に派遣し弔っている。