<藤原氏>北家 真夏流

F325:烏丸光賢  日野資業 ― 日野実綱 ― 日野有信 ― 日野資長 ― 日野資宣 ― 日野資名 ― 烏丸豊光 ― 烏丸光賢 ― 裏松資清 F326:裏松資清

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裏松資清 裏松光世

 もともとは室町時代前期に、烏丸家の宗家筋にあたる日野家において裏松資康(日野資康)を祖とする庶流が家号の「裏松」で称されることがあった。裏松家からは足利将軍家の御台所を4名(業子,康子,栄子,宗子)、足利将軍の生母を1名(栄子)輩出しているが、のちに裏松家の当主であった勝光が、兼郷の逝去のあと断絶していた日野家宗家の家督を継承して子孫に伝えたために、裏松家の系統が日野家の嫡流扱いを受け、今日では「日野」で称されることが多い。
 江戸時代に入って権中納言・烏丸光賢の次男・資清が分家して再び「裏松」の家号が復活することとなった。

 

 1736年(元文元年)11月、烏丸光栄の5男として京都に生まれる。1747年(延享4年)、12歳のとき前権中納言・裏松益光の養子に入って裏松家の嗣子となり、同年12月従五位下に叙される。
 思想家・竹内敬持(竹内式部)の門人として、1758年(宝暦8年)23歳・左少弁のとき宝暦事件に連座、江戸幕府の忌諱にふれて遠慮(籠居)処分を受けた。2年後には「所労と称し出仕致さざる事」との沙汰により永蟄居を命ぜられ、出家させられた。法名を固禅と号した。その後30年の蟄居生活の間に平安京を研究して『大内裏図考證』を著した。1788年(天明8年)の京都の大火で内裏が焼失し、その再建にあたり、その考証を参考とすることとなった。その功により、勅命により赦免される。また褒賞として錦5把,銀10枚を下賜された。
 多くの著作を残し、1804年(文化元年)7月、満67歳で死去。1891年(明治24年)、従四位を追贈された。

裏松恭光 裏松良光

 山城国京都で裏松光世の子として誕生。裏松明光の養子となる。文化3年(1806年)に光格天皇の御児として内廷に勤務し、天保3年(1832年)蔵人。嘉永4年(1851年)従三位、安政2年(1855年)参議と昇進を進める。安政4年(1857年)議奏に就任し、翌年の条約勅許問題に関与した。
 安政6年(1859年)権中納言となるも、万延元年(1860年)辞職。慶応3年(1867年)、孝明天皇より御児・蔵人・議奏として幼少から3代の天皇に仕えた功績に対する「御憐愍」により、権大納言に就任。

 

 山城国京都で右少弁・裏松勲光の長男として誕生。文久元年12月3日(1862年1月2日)元服して昇殿を許され従五位上に叙せられ筑前権介に任じられた。中務権少輔,兼中宮権大進などを歴任し、明治2年8月22日(1869年9月27日)侍従に就任。明治5年1月14日(1872年2月22日)依願免本官となりドイツ帝国へ留学。1874年3月に官費留学生に帰国命令が出されたが、自費留学が認められ、1875年(明治8年)10月31日に帰国した。祖父・裏松恭光の死去に伴い、明治5年2月12日(1872年3月20日)家督を相続。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。
 1876年(明治9年)3月4日、陸軍歩兵少尉に任官し陸軍戸山学校附となる。以後、名古屋鎮台歩兵第6連隊小隊長,東京鎮台歩兵第2連隊小隊長,同歩兵第3連隊小隊長,歩兵第17連隊中隊長,歩兵第32連隊中隊長などを歴任し、1898年(明治31年)4月1日、歩兵少佐に昇進と同時に後備役に編入された。
 1902年(明治35年)10月22日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、死去するまで在任した。