<藤原氏>南家

F007:藤原為憲  藤原鎌足 ― 藤原武智麻呂 ― 藤原乙麻呂 ― 藤原為憲 ― 工藤景光 F056:工藤景光

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工藤行光 厨川光林

 小次郎行光は、一家を挙げて源頼朝に仕え、文治5年(1189年)の奥州征伐にも景光・行光父子ともに従軍し、それぞれ軍功をたて、そして、岩手郡厨川に所領を与えられ、その地に居を構えた。
 『工藤家譜』によると、陸奥の西岩手郡と棚倉を兼領したとあり、西岩手郡とは、盛岡平野のほとんどを占める北上河西部の広大な土地である。また、古伝に工藤行光の所領を岩手郡三十三郷と伝えるが、その郷名は明確ではない。『巌鷺山縁記』によれば、建久元年(1190年)5月、行光は岩手山に登山祈祷したと伝えている。
 建久5年5月は、泰衡滅亡のあと、その家臣であった大河兼任が乱を起こし討死し、奥州が静謐になった翌翌月である。頼朝は兼任の乱を聞くと、奥州に所領のある御家人を奥州へ発向せしめたから、工藤一族もまた、急ぎ厨川に下向したものであろう。そして、乱の鎮圧後、領内の霊山で北上の鎮守でもある巌鷺権現社に国家安泰を祈願したと考えられる。 

 『落穂集』に「厨川兵部少輔光林は、行光より十三代の孫にして、天文年中、田子左衛門尉信高君出張のみぎり、服従して、岩手郡残らず南部家の従兵に定まる。光林は旧領のうち八百石を安堵し、其の男厨川豊前(光勝)、父の遺領 八百石を領し、信直公に仕え、再々戦功を尽くす」とある。工藤系図にも光林の子・豊前光勝をはじめ2男・光忠も南部家に仕え、それぞれの子孫も南部家に仕えたことが知られる。 
坂牛光泰 工藤時光

 鎌倉時代中期の武士で北条氏得宗家被官である御内人。光泰以降も頼光,宗光,貞光(貞光は御内侍所)と得宗家当主に仕えた。また、その名乗りから得宗の偏諱を受けた様子が窺え、光泰も北条泰時存命時には元服を済ませている。
 北条時頼,時宗,貞時に仕えた。建長3年(1251年)、時頼が仏像鋳造供養を催した際、奉行人に命ぜられる。同年、若宮別当へ時頼の書状を届けた。翌4年(1252年)、法華堂で催された仏事の奉行を務めた。正嘉元年(1257年)、勝長寿院造営に際して雑掌に任じられる。
 文応元年(1260年)、平岡実俊と入れ替わりに小侍所所司へ就任、実俊の復帰後も光泰は実俊と共に引き続きその役目を務めている。儀式に際し北条時輔や北条宗頼と共に馬の牽引を行った事績も見られる。時頼の使者としての活動が多かったためか、弘長3年11月22日(1263年12月24日)の北条時頼臨終の際、最後の看病を許された得宗被官7人の内の一人に挙げられている。 

 出家後の法号である工藤杲禅、工藤杲暁の方が比較的知られており、史料で工藤貞祐の父と解っていながらも長らく実名や系譜が判明していなかったが、工藤氏の系図の注記から工藤時光に比定されるようになっており、同系図では工藤高光の子で工藤祐光の弟に位置づけられている。尚、実名の「時」の字は、これを通字とする北条氏から拝領したものとみられる。
 主な活動としては出家後に見られ、得宗・北条貞時の下で得宗家公文所執事や、得宗分国である若狭の守護代を務めたことが確認できる。また、飯沼助宗らと共に引付の監督を命じられたようである。
 法名については「若狭国守護職次第」では「工藤右衛門入道果禪。本果曉」、「若狭国今富名領主次第」では工藤右衛門入道杲禪の注記に「初杲禪、後に弘安九年改杲曉」と書かれていて名乗りの順序が異なっているが、いずれにせよ杲禅と杲暁が同一人物であったことは確かである。法名の名乗りについては、若狭守護代となった弘安年間より後に「杲禅」を名乗ったことが確認できるが、正安3年(1301年)3月9日付の「得宗公文所奉行人連署奉書」の奉者第一位にある「杲勝」が、その花押から時光と同一人物とされており、その「こうしょう」という読みからこの当時は「杲暁」を称していたものとみられる。 

工藤貞祐

 北条貞時より偏諱を受けており、貞時が得宗家当主であった期間〔弘安7年(1284年)~応長元年(1311年)〕内に元服したものとみられる。
 貞時・高時父子に仕える。幕府内では、徳治2年(1307年)、円覚寺の北条時宗忌日斎会には二番衆の筆頭として定められるほか、得宗領である若狭国の守護代を延慶2年(1309年)から正中元年(1324年)まで、摂津国多田庄の「多田院造営惣奉行」を延慶元年(1308年)から元徳3/元弘元年(1331年)まで務めたことが確認できる。元亨3年(1323年)10月の貞時13回忌法要では、一品経の妙音品や砂金50両を調進している。
 嘉暦元年(1326年)3月、奥州で発生した安東氏一族の紛争(安藤氏の乱)を鎮圧すべく幕府軍出兵隊の一人として出陣し、同年7月には安東季長を捕らえて帰国している。翌嘉暦2年(1327年)9月7日には母が駿河国で死去したようである。貞祐自身のその後については不明であるが、前述の通り元徳3年/元弘元年(1331年)までの生存は確認できる。