<藤原氏>南家

F045:伊東祐清   藤原乙麻呂 ― 藤原為憲 ― 工藤家次 ― 伊東祐清 ― 伊東長実 F046:伊東長実

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伊東長実 伊東長詮

 永禄3年(1560年)、尾張国岩倉の国人・伊東長久の長男として生まれる。日向国の伊東氏と遠祖を同じとする。
 天正元年(1573年)の小谷城攻めから織田氏に仕え、羽柴秀吉配下につけられ、大母衣衆に抜擢される。別所氏攻めで功績を残して織田信長より脇差を与えられたとの記録が残る。その後も秀吉配下として各地を転戦し、黄母衣衆24人の一人に列せられた。
 天正18年(1590年)の小田原の役にも従軍し、山中城攻めの際には一番乗りを果たす活躍し、戦後の天正19年(1591年)に備中川辺に1万300石を与えられ大名となった。文禄・慶長の役では肥前名護屋に駐屯した。
 慶長5年(1600年)6月16日、会津征伐に向かうため下野国小山にいた徳川家康にいち早く石田三成の挙兵を知らせる功績を残した。この功績で後に大坂の陣では豊臣方として入城し、大坂七手組頭の一人として家康に敵対するものの、青木一重と共に大名として存続することを許された。ほとんどの豊臣方の大名が領地を取り上げられる中、この処置は異例であり、スパイ的な活動を行っていたのではないかとも考えられている。
 晩年に剃髪し宗徳と号した。寛永6年(1629年)2月17日に死去。享年70。

 延享4年(1747年)6月に世子とされた。宝暦13年(1763年)9月16日に父の隠居により家督を継いだ。有能で無かった父と較べて才能に優れ、性質は温厚というまさに名君で、家臣の意見をよく聞く人物だった。ただし、一部に感情の激しいところがあり、家臣を震え上がらせたとも言われている。明和7年(1770年)に旱魃が追こって領民が苦しむと、自ら節約に努めて領民を助ける施策を講じている。
 安永7年(1778年)6月23日、父に先立って死去した。享年43。跡を長男・長寛が継いだ。長詮が死去したとき、領民は皆悲しみに暮れたと言われている。

伊東長寛

 安永7年(1778年)、父の死去により家督を継いだ。父の才を受け継いだ人物で、重臣の浦池九淵を重用して藩政改革を行なった。その結果、財政は再建され、寛政6年(1794年)には演武場、寛政7年(1795年)には藩校である敬学館を創設するなど、大いなる成功を収めた。
 はじめ5男・長禎(早世)、のち11男・長之を世子としていたが、長之は病弱だったために廃嫡し、長禎の長男・長裕を世子とした。
嘉永3年(1850年)6月11日に死去した。享年87。