<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

AB09:安倍頼時  阿倍阿加古 ― 阿倍比羅夫 ― 安倍頼時 ― 安倍知任 AB17:安倍知任


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安倍知任 安倍 寛

 陸奥国の俘囚の長とされる豪族・安倍頼時の3男の安倍鳥海三郎宗任を祖とする。その子・安倍季任は松浦水軍の娘を妻とし、子の実任から松浦氏を名乗る。宗任から6代の高俊には男子なく、娘は平清盛の孫の平知忠に嫁ぐが、平家滅亡により母方の姓である「安倍」を名乗った。
 子孫は、内閣総理大臣の安倍晋三につながる。

 山口県大津郡日置村蔵小田に安倍彪助・タメの長男として生まれる。4歳までに両親が相次いで死亡したため、伯母のヨシに育てられる。
 山口県立萩中学校、金沢の旧制第四高等学校を経て、1921年(大正10年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。帝大卒業後は東京で自転車製造会社を経営していたが、1923年(大正12年)の関東大震災で工場が壊滅し、会社は倒産。東京に移ったのちに本堂静子と結婚し長男・晋太郎を儲けるが、直後に離婚し以降は独身で暮らした。その後は山口県に戻り、「金権腐敗打破」を叫んで第1回普通選挙とされる1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙に立憲政友会公認で山口県一区から立候補するも落選した。
 総選挙後は学生時代に罹患していた結核が再発し、それにより脊椎カリエスを併発し療養していたが、1933年(昭和8年)に地元住民に請われる形で日置村長に就任した。1935年(昭和10年)からは山口県会議員を兼務などを経て、1937年(昭和12年)の第20回総選挙にて「厳正中立」を唱えて無所属で立候補し、衆議院議員に初当選した。
 一貫して反戦を訴え、1938年(昭和13年)の第一次近衛声明に反対し、1942年(昭和17年)の第21回総選挙(翼賛選挙)に際しても東條英機らの軍閥主義を鋭く批判、大政翼賛会の推薦を受けずに立候補するという不利な立場であったが、最下位ながらも2期連続となる当選を果たした。議員在職中は三木武夫と共同で国政研究会を創設し、塩野季彦を囲む木曜会に参加して東条内閣退陣要求、戦争反対、戦争終結などを主張した。帝国議会では商工省委員や外務省委員などを務め、戦後は日本進歩党に加入し1946年(昭和21年)4月の第22回総選挙に向けて準備していたが、直前に心臓麻痺で急死した。

安倍晋太郎 安倍晋三

 安倍家は、江戸時代に大庄屋をつとめ、酒や醤油の醸造業を営み、やがて山口県大津郡きっての名家として知られるようになり、明治以降は晋太郎の大伯父・安倍慎太郎や父・安倍寛が地元の名士として山口県議会議員や衆議院議員を務めるようになった家柄である。
 生後間もなく郷里の山口に戻り幼少期を過ごす。晋太郎が生まれて80日後に両親が離婚した。1944年(昭和19年)9月、東京帝国大学法学部に進学するが、同年10月、海軍滋賀航空隊に予備学生として入隊させられた。太平洋戦争終結後、改称された東京大学法学部に復学。
 1949年(昭和24年)、毎日新聞社に入社し政治部に配属される。1951年(昭和26年)5月には、岸信介の長女・洋子と結婚。1956年(昭和31年)、岸が石橋湛山内閣の外相として入閣したのを機に毎日新聞を退職して外務大臣秘書官となった。1957年(昭和32年)2月25日、第1次岸内閣が成立し、安倍は内閣総理大臣秘書官に就任した。
 1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙に、郷里の旧山口1区から自民党公認を得て立候補し初当選する。
 1982年(昭和57年)11月、第1次中曽根内閣が成立すると、安倍は外務大臣として入閣し、連続4期務めた。1988年(昭和63年)にはリクルート事件に巻き込まれ、この頃から体調を崩し、がん摘出手術を行い退院するも再入院し、1991年(平成3年)4月中旬、来日中のソ連邦初代大統領ミハイル・ゴルバチョフの歓迎昼食会への出席が最後の政治活動となり、5月15日に死去した。67歳没。


詳細はWikipedia(安倍晋太郎)を参照


 第90・96・97・98代内閣総理大臣,第72代内閣官房長官等を歴任。,衆議院議員を10期務めた。
 2012年(平成24年)から2020年(令和2年)にかけて、日本の憲政史上最も長く内閣総理大臣を務め、内閣総理大臣退任後も自民党憲法改正推進本部の最高顧問や清和政策研究会の会長に就任するなど党内で強い影響力を有したが、2022年7月8日に奈良市で山上徹也容疑者によって銃撃され死亡した(67歳)。


詳細はWikipedia(安倍晋三)を参照