寺記によれば、726(神亀3)年に行基によって開創され、当時は正福寺と称し天台宗に属していた。寿永年間(1182~83年)に高橋長綱により破却されたが、40余年後に当地の目代半澤六郎によって再興され、豊川明言寺の玄上和尚を住職に迎え総曹洞宗に属することとなった。
永正年間(1504~20年)になると、松平宗家3代信光の8男である能見城主の松平光親が堂宇を再建して見松山観音寺と改称した。
1601(慶長6)年には伊奈忠次より寺領五石の寄進を受け、1648(慶安元)年に徳川家光によって、これが朱印状に改められた。
墓地には、初代能見松平光親,2代重親,3代重吉の墓、初代光親の二男・松平親友の碑、そして梶氏の墓がある。
【史跡規模】 |
【指 定】 |
関連時代 | 奈良時代 | 平安時代:後期 | 戦国時代 |
関連年号 | 726年 | 1182~83年 | 1504~20年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
行基 |
**** | 高橋長綱 | **** | 半澤六郎 | **** |
玄上和尚 | **** | 松平光親 | MT12 | 松平重親 | MT12 |
松平重吉 |
MT12 | 松平親友 | MT12 | 伊奈忠次 | **** |
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▲門前
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▲【転載】
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▲松平光親,重親の墓
▲松平光親,重親の墓
▲松平重吉の墓
▲松平親友の碑
▲松平親友の碑の裏書
▲梶氏の墓所
▲能見城域だったとされる寺の西側
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