丸子城跡

まりこじょうあと(MarIko Castle Ruins)

【C-SZ153】探訪日:2025/3.23

【C-SZ153】丸子城跡 静岡県静岡市駿河区丸子3210

【MAP】

〔駐車場所〕駿府の工房・匠宿の駐車場が利用できる(国道1号線のガード下)。

   北城(宇津谷城,鞠子城)と南城(三角城,赤目ヶ谷砦)から成る。築城年は定かではないが、北城は応永年間(1394~1428年)、駿河国守護の今川氏家臣・斎藤安元歴代の居城として築かれ、北城の北側山麓には斎藤氏の居館が設けられていたと見られている。
 1476(文明8)年、今川義忠が塩買坂の戦いで戦死後に起きた龍王丸(のちの今川氏親)と小鹿範満との家督争いの際、龍王丸は一時丸子城で暮らしていたとされる。氏親が家督相続後に、西進を目指すにあたり、駿河府中の防御を固めるため斎藤氏の居城を接収して、南の三角山方面に城域を拡大したのが南城である。1495(明応4)年頃まで氏親は丸子城を居館(丸子館)にしていたともされるが、それ以降から氏真までの城主や歴史は不明である。
 1568(永禄11)年、武田信玄は駿河に侵攻すると、西駿河に残る今川方への押さえとして山県昌景を丸子城に置いた。1570(永禄13)年には、信玄は駿河全域を制圧して、丸子城は諸賀兵部大輔,関甚五兵衛を在番とし、1578(天正6)年頃には屋代勝永が入った。この間、西方面の大規模な増築や各所の改修が行われている。
 1581(天正9)年3月の高天神城落城を前に、武田方は丸子城を放棄し甲斐へ退いた。後に徳川家康は松平備後守(松平清善?)を置いたが、1590(天正18)年の関東移封に伴い廃城となった。
 城は、南北とも最高所の標高は136m,比高100mにあり、城域は東西800m,南北350mに及ぶ。北城は南から屈折して北東へ伸びる主軸尾根上に、西から東へ一線に一の曲輪,二の曲輪,三の曲輪が段状を成して造られ、各曲輪は土塁で囲まれており、郭間は空堀で仕切られている。南城は主軸尾根の南端に長さ95m,幅平均40mで、高さ2mの土塁を周回させた「千畳敷」と呼ばれる主郭を構え、東西の支尾根上に段上に重ねた曲輪を設けている。南城本丸から北城主郭間の西側斜面には、南北に長大な空堀が設けられている。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 南北朝時代 室町時代 戦国時代
関連年号 1394~1428年 1476年 1568年・1570年・1581年・1590年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
斎藤安元 F*** 今川氏親 G360 武田信玄 G433
山県昌景 G121 屋代勝永 G507 徳川家康 TG01
松平備後守(松平清善?) MT03

 

【C-SZ153】丸子城跡
 登り口から30分足らずで北城,二の曲輪を経て本曲輪(南城)まで行くことができる。見所がたくさんあり、特に西側を南北に走る横堀は、長大でよく残されており見応えがあった。今回の限られた時間内では、見切れなかった個所も多くあったため、再度じっくり探訪したい。

 

【C-SZ153】丸子城跡

【C-SZ153】丸子城跡 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

駿府の工房 匠宿の前にある案内板 ここを入る 途中にある丸子稲荷神社奥宮 駐屯地(外曲輪) 駐屯地(外曲輪) 土橋 堀切 堀切 大手曲輪 大手曲輪 北曲輪へ 北曲輪(北城:今川氏の本丸) 北曲輪 北曲輪の土塁 北曲輪の土塁 北曲輪 堀切 西側の横堀 西側の横堀 西側の横堀 西側の横堀 西側の横堀 二の曲輪 二の曲輪 二の曲輪 二の曲輪 二の曲輪からの眺望 二の曲輪 二の曲輪と本曲輪の間の堀切 二の曲輪と本曲輪の間の堀切 二の曲輪と本曲輪の間の堀切 二の曲輪と本曲輪の間の堀切 本曲輪の枡形虎口 本曲輪を北から見る 本曲輪の北側土塁 本曲輪の東側土塁 本曲輪の南西部 本曲輪の南部 本曲輪を南から見る 平虎口 平虎口下の曲輪 東下に段状に腰曲輪が続く 喰い違い虎口を下りる 喰い違い虎口 横堀と物見曲輪 物見曲輪 大鈩曲輪 大鈩曲輪