手越河原古戦場

てごしがわらこせんじょう(Historic Battlefield of Tegoshigawara)

【B-SZ004】探訪日:2025/3.23

 静岡県静岡市駿河区みずほ5丁目

【MAP】

〔駐車場所〕

   1336(建武2)年12月5日、駿河国手越河原で後醍醐天皇に足利尊氏追討を命じられた新田義貞軍と足利直義軍との合戦が行われた。遺構は残されていないが、静岡市駿河区みずほ5丁目の公園内に石碑が建つ。
 手越河原は、幾度か戦いの場として登場する。
 1335(建武2)年7月、鎌倉幕府再興のため北条時行信濃で挙兵した(中先代の乱)。京都の建武政権(後醍醐天皇・足利尊氏)は当初、時行ら反乱軍が京都へ向かうと予想していたが、足利直義の守る鎌倉将軍府を襲撃した。直義は尊氏の子でまだ幼い足利義詮や後醍醐天皇の皇子・成良親王らを連れて鎌倉を逃れた。その際、建武政権から失脚し鎌倉東光寺に幽閉されていた後醍醐天皇の皇子・護良親王が時行の手に渡るのを恐れ、直義が独断で家臣・淵辺義博に親王を殺害させた。7月25日、時行は鎌倉に入り、一時的に支配する。時行は逃げる直義軍を手越河原で撃破している。
 京都の足利尊氏は、後醍醐に時行討伐の許可と武家政権設立に必要となる総追捕使と征夷大将軍の役職を要請するが、勅状を得られないまま出陣。各所で時行側の軍勢を破り、時行は20日余りで鎌倉から逃亡した。
 9月27日、尊氏は鎌倉において、乱の鎮圧に付き従った将士に勝手に恩賞の分配を行うため袖判下文を発給し武家政権の既成事実化にかかり、建武政権の上洛命令を無視したりするなど、建武政権から離反する(延元の乱)。
 これに対し後醍醐天皇は尊氏追討令を発し、新田義貞を尊良親王と共に約67000の軍勢で鎌倉へ向かわせた。一方、尊氏は東国の武士を集め弟の直義を大将として新田軍を迎え撃つため出陣させた。1336(建武2)年11月25日から27日にわたり三河国矢作川で新田軍と足利直義・高師泰の間で矢作川の戦いが発生する。直義勢は20万程の東国の武将を率いてきたが、高勢が敗走したため直義勢は遠江国に退却した。
 そして、12月5日、両軍は安倍川右岸河口付近の手越河原で激突。正午から夜8時まで17回の激闘の末、新田軍が夜襲に成功し直義勢は敗れた。このとき、直義の家臣の淵辺義博が身代わりに殺され、直義が逃げる間をつくったとされる。また、この戦いで近江国守護の佐々木道誉の弟・貞満らが戦死。道誉も新田軍に降伏して一時新田軍に従軍した(その後の箱根・竹ノ下の戦いでは足利軍に帰参)。
 さらには、南北朝時代の1351(観応2/正平6)年、南朝方の安倍城主・狩野氏と北朝方の今川氏が手越河原にて戦い、駿河府中を占拠していた南朝方の中野掃部介,入江駿河守が今川軍勢に敗れて久能山城に退いている。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 南北朝時代
関連年号 1335年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
足利直義 G331 新田義貞 G325 後醍醐天皇 K401
京極高氏(佐々木道誉) G758 京極貞満 G758 淵辺義博 ****

 

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