一色氏発祥の地

いっしきし はっしょうのち(Birthplace of Isshiki Clan)

【Z-AC068】探訪日:2024/8.19

【Z-AC068】一色氏発祥の地 愛知県西尾市一色町一色上屋敷

【MAP】

〔駐車場所〕安休寺の駐車場がある。

【Z-AC068】一色氏発祥の地

   清和源氏の足利氏一門で足利泰氏の子・公深が三河国吉良荘一色を本貫とし、一色氏を名乗り始祖となった。「一色氏発祥之地」の碑が安休寺の北隣に建つ。
 一色公深とその子・頼行は御家人として鎌倉幕府に仕える。公深は1319(元応元年)には、下総国葛飾郡田宮荘幸手に移住し、幸手城を築いたという。1336(建武3)年、頼行と異母弟・範氏は、建武の新政から離反した足利尊氏の九州落ちに従い、1337(延元2)年、犬塚原の戦いで頼行は討死した。範氏とその子・直氏は鎮西管領(後の九州探題)に任ぜられるも九州経略には失敗している。
直氏は関東の所領に下り、鎌倉公方に仕える宮内一色氏の祖となった。
 肥前国の守護だった範光(範氏の子)は、貞治の変で斯波義種が失脚した後の若狭国の守護に任じられ、守護大名として家勢を回復していくきっかけをつかみ、さらに、子の詮範が明徳の乱の戦功で漸く若狭支配は軌道に乗ることになった。範光は、若狭支配の展開と並行して三河国の守護にも任じられた。詮範は、若狭・三河に加え尾張の知多・海東2郡の守護に任じられ、明徳の乱の功績で四職家として幕政に参与する重要な家の一つとなる。
 その息子・満範は、さらに丹後国を与えられ、一色氏としての最盛期を迎えた。その後、一色氏は満範の3人の息子の家に分かれていく。長男・持範は嫡流であったが三河・伊勢へと退いた。次男・義範は惣領(丹後・若狭守護)の地位を譲り受けた。3男・持信は後に幕臣として子・教親ともども6代将軍・足利義教に重用された。
 やがて、応仁の乱以降は室町幕府とともに一色氏も衰退していく。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】

【国重文】

関連時代 鎌倉時代
関連年号
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
一色公深 G350

 

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