浅井長政自刃の地(赤尾屋敷跡)
あざいながまさ じじんのち(あかおやしきあと)(The Place Where Nagamasa Azai Committed Suicide [in Akao Residence Ruins])
【Z-SG002】探訪日:2019/9.16
滋賀県長浜市尊勝寺町
【MAP】
〔駐車場所〕
1573(天正元)年9月1日、織田信長軍の小谷城攻めにおいて浅井長政が自刃した場とされる。城内の赤尾屋敷跡にある。
同年8月、信長包囲網が崩壊すると、信長はこれを好機に3万の軍勢を率いて北近江への侵攻を開始し、虎御前山砦に本陣を布いた。浅井長政は朝倉義景に援軍要請するが、朝倉軍も撤退を余儀なくされ、追撃してきた信長軍に刀根坂の戦いにて壊滅し朝倉義景は一乗谷で自刃する。
織田軍は取って返して全軍を浅井氏の小谷城に向け包囲した。信長は不破光治、さらに木下秀吉(豊臣秀吉)を使者として送り降伏を勧めたが、長政は断り続け、最終勧告も決裂。8月27日から総攻撃が始まり、父の浅井久政が小丸にて自害、長政は、嫡男・万福丸(後日発見され磔死)に家臣を付けて城外へ逃がし、さらに正室のお市の方を3人の娘(浅井三姉妹)と共に織田軍に引き渡した。9月1日、黒金門から討って出たが、信長軍に攻められ本丸に戻れず、袖曲輪の赤尾屋敷内で重臣・赤尾清綱,弟・浅井政元らと共に自害して果てた。享年29。墓所は滋賀県長浜市の徳勝寺にある。
『信長公記』には、1574(天正2)年正月の内輪の宴席において薄濃(漆塗りに金粉を施したもの)にした朝倉義景,浅井久政・長政の頭蓋骨を御肴としたとあり、『浅井三代記』にも長政の首と義景の首から肉を取り除いて朱塗りにされた頭骨が御肴に出されたとある(ただ、髑髏杯にして信長が酒を飲んだというのは作り話とされる)。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1573年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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浅井長政 | F562 | 赤尾清綱 | F563 | 浅井政元 | F562 |
織田信長 | OD04 |