妙厳寺(豊川稲荷)
みょうごんじ(Myogon-ji Temple [Toyokawa Inari])
【T-AC105】探訪日:2023/10.21
愛知県豊川市豊川町1 <📲:0533-85-2030>
【MAP】
〔駐車場所〕
正式寺号は「円福山 豊川閣 妙厳寺」と称する寺院であるが、境内に祀られる秘仏「豊川吒枳尼真天」の稲穂を担いだ姿などから、一般には「豊川稲荷」と呼ばれるようになった。日本三大稲荷の1つとされる。
1441(嘉吉元)年、曹洞宗法王派の東海義易によって創建された。東海義易は、9歳の時に曹洞宗法王派5世の華蔵義曇のもとで仏門に入り、東海地方における法王派の拠点となる普済寺(浜松市)で修行し、その後、諸国の行脚に入った。1439(永享11)年、荒廃した真言宗寺院・歓喜院(豊橋市)を再建し曹洞宗に改め、その2年後、豊川の円福ヶ丘の地に妙厳寺を建立した。
縁起によると、鎌倉時代の禅僧・寒巌義尹(法王派の法祖として尊崇)が入宋し、1267(文永4)年に船で日本へ帰国の途上、吒枳尼天の加護を受けたのがきっかけとなり、この天を護法神として尊崇するようになったとされる。東海義易は、寒巌自作の吒枳尼天像を山門の鎮守として祀ったといわれる。豊川吒枳尼天の姿は、白狐の背に乗り、稲束をかついで宝珠を持ち、岩の上を飛ぶ天女の形である。信仰対象は「稲荷」と通称されてはいるものの、稲荷神そのものではなく、吒枳尼天である。
なお、俗説ではあるが、妙厳寺開山の時に寺男として義易に仕えるために翁の姿をして平八郎と名乗った狐「平八狐」を祀っているともいわれている。義易が入寂した後は愛用の釜を遺して忽然と姿を消したといい、今もこの釜は本殿奥に安置されている。
戦国時代になると、三河領主の今川義元,徳川家康から外護を受けた。円福ヶ丘の高台にあった伽藍は、元禄年間(1688~1703年)までに現在地に移転された。現存する諸堂は江戸時代末期から近代の再建である。
江戸時代になると、大岡忠相や渡辺崋山からの信仰を受け、立身出世や盗難避けの神として江戸の庶民からも信仰されるようになり、1828(文政11)年には、大岡邸の一角を借りて江戸参詣所(後の東京別院)が創建された。
江戸時代末期には東海道から豊川稲荷へ参拝するため、現在の愛知県豊橋市と豊川市に石の鳥居が立てられた。皇族においては有栖川家等も帰依し、明治初年に「豊川閣」の篇額を寄進したことから、豊川閣とも呼ばれるようになる。
なお、当寺の門前町は稲荷寿司発祥の地の一つとも言われている。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】木造地蔵菩薩立像 2躯(鎌倉時代の作) |
関連時代 | 室町時代 | 江戸時代:前期 |
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関連年号 | 1441年 | 1688~1703年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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東海義易 | **** | 今川義元 | G361 | 徳川家康 | TG01 |
大岡忠相 | F716 | 渡辺崋山 | **** |
妙厳寺(豊川稲荷)境内案内図(豊川稲荷ホームページに加筆)