金地院

こんちいん(Konchi-in Temple)

【T-KT031】探訪日:2015/11.7

【T-KT031】金地院 京都府京都市左京区南禅寺福地町86-12 <📲:075-771-3511>

【MAP】

〔駐車場所〕

【T-KT031】金地院

   臨済宗南禅寺派の寺院で大本山南禅寺の塔頭。本尊は地蔵菩薩。応永年間(1394~1428年)に室町幕府第4代将軍・足利義持が南禅寺68世の大業徳基を開山として鷹ヶ峯に創建したと伝わるが、定かではない。
 1605(慶長10)年、「黒衣の宰相」と呼ばれた以心崇伝(金地院崇伝)によって現在地に移され、南禅寺の塔頭とし、自らの住坊として再興された。1610(慶長15)年には駿府城内に駿府金地院が、1619(元和5)年には江戸城内北ノ丸に江戸金地院が開かれ、駿府と江戸における崇伝の活動拠点となった。
 1619(元和5)年、幕府より僧録に任ぜられ、それまで相国寺塔頭鹿苑院院主が務めていた僧録職は以後、幕末まで金地院住持が務め、金地僧録と呼ばれて五山十刹以下の全ての住職の任命権を持つ事実上の最高機関とされた。また、10万石の格式を与えられ、「寺大名」とも呼ばれる権勢を誇った。
 院内には徳川家康の遺言による3つの東照宮のうちの一つや小堀遠州作の庭などがある。
 方丈(本堂)は桁行11間,梁間7間の大規模な建物であるが、平面形式は禅院方丈に典型的な六間取りである。各室の襖や障子腰板には狩野派による金地の障壁画が描かれている。1627(寛永4)年に崇伝によって建立されたものとみられる。
 「八窓席」は崇伝の依頼により小堀遠州が改造したもので三畳台目の茶室。躙口が隅から2尺ほど離れた位置に設けられているのが特色である。八窓席と称するが、窓は西面の躙口上に1つ、北面の壁に3つで、床脇の墨跡窓、袖壁の下地窓を含めても窓は6つである。創建当時は名称通り8つの窓があったが、明治時代の修築で6つとなったという。大徳寺孤篷庵,曼殊院の茶室と共に京都三名席の1つに数えられる。
 東照宮は小堀遠州による築で徳川家康の遺言により建てられ、家康の遺髪と念持仏を祀っている。権現造りの社殿は1628(寛永5)年に造営された。その後も江戸幕府による増改築が度々なされている。
 国指定特別名勝の庭園「鶴亀の庭」は1632(寛永9)年に徳川家光を迎えるために崇伝が小堀遠州に作庭させたものである。安土桃山時代の風格を備えた江戸時代初期の代表的枯山水庭園として知られ、方丈から見て右手に鶴が左手に亀が配されており、鶴の背には常緑樹、亀の背には落葉樹が植えられている。また、鶴と亀の間にある5畳弱の長方形の巨石は遥拝石と呼ばれ、隣接する東照宮を拝むために置かれたもので、造営当時は庭から東照宮が見えたと伝えられる。

【史跡規模】

 

【指 定】国指定特別名勝:金地院庭園(鶴亀の庭)

【国 宝】紙本墨画溪陰小築図:1413( 応永20)年作の詩画軸

     ・絹本著色秋景山水図,冬景山水図:ともに北宋8代皇帝・徽宗の筆と伝わる

【国重文】本堂(方丈)     ・茶室(八窓席)  ・東照宮(本殿,石の間,拝殿)1棟

     ・紙本墨画山水図(楼閣山水図)    ・絹本墨画山水図

     ・紙本墨画老松図 6面・紙本墨画猿猴捉月図 4面 :長谷川等伯筆

     ・本光国師日記 46冊:崇伝の日記   ・異国日記 2冊:崇伝の筆録

     ・異国渡海御朱印帳,異国近年御書草案 1冊

     ・異国日記御記録雑記

     ・慶長十九年林道春及び五山衆試文稿 六曲屏風一双

     ・濃比須般国への返書案:崇伝筆

     ・武家諸法度草稿:崇伝自筆の武家諸法度の草案

     ・惟康親王願文(文永十一年十一月日)  

関連時代 室町時代 江戸時代:前期
関連年号 1394~1428年 1605年・1627年・1628年・1632年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
足利義持 G332 以心崇伝(金地院崇伝) **** 小堀遠州(正一) F924
徳川家康 TG01

 

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大門 大門 庫裏 明智門 明智門 弁天池 弁天池 方丈から見る庭園 亀島(亀甲石) 礼拝石 鶴島(鶴嘴石と羽石) 【Wikipediaより転載】東照宮門 東照宮(拝殿) 東照宮(石の間と本殿) 東照宮(本殿) 東照宮(拝殿)