本多重次生誕の地
ほんだしげつぐ せいたんのち(Birthplace of Shigetsugu Honda)
【Z-AC057】探訪日:2023/9.7
愛知県岡崎市宮地町馬場31
〔駐車場所〕糟目犬頭神社の駐車場(参道)を利用できる。
1529(享禄2)年、本多重正の2男としてこの地に生まれた。徳川家康より14歳年上で松平広忠の代から松平宗家に仕えた。通称の作左衛門といい、三河三奉行のときには、その性格から「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三郎兵衛」(高力清長は寛大、本多重次は剛毅、天野康景は慎重でそつが無い)と言われた。重次は非道なことはせず、依怙贔屓をせず、明白に沙汰を遂げ、行政面の手腕は皆を驚かせたという。また、領民に対してもやさしく接したといわれる。
また武将としても活躍し、1558(永禄元)年、家康の寺部城初陣に従い功を挙げ、三河一向一揆のときには、自ら宗門を改めて家康方に付いている。また、1572(元亀3)年の三方ヶ原の戦いでは大敗した徳川軍の中で、自ら敵兵数十人に囲まれて絶体絶命に陥る中、敵兵の繰り出す槍をたぐって1騎を落馬させ、首をかき切ってその馬を奪って浜松城に逃げ込んだ、という逸話も伝わる。
ところが、小田原征伐後に家康が関東へ移封後、豊臣秀吉の命を受けた家康により、重次は上総国古井戸(現在の千葉県君津市)3,000石にて蟄居を命じられた。その後、蟄居先は下総国相馬郡井野(現在の茨城県取手市井野)に変更され、1596(文禄5)年7月16日、68歳で死去した。
蟄居の理由は、重次はたびたび豊臣秀吉の怒りを買っていたことによる。なかでも秀吉の心証を著しく損なったのは、1586(天正14)年、家康が秀吉に臣従を誓い上洛する代償として秀吉の生母・大政所が岡崎に下向したとき、家康に何かあれば大政所を即刻焼き殺すつもりで、宿舎に薪を積んだことであろう。
重次には、ほかにも逸話が残されている。家康が正室・築山殿の奥女中の於万に手を付いて於義丸(後の結城秀康)を身籠ったとき、家康は築山殿の悋気を恐れ於万を重次の許に預け、秀康は重次に匿われている中村家で誕生した。
また、日本一短い手紙として有名な「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」も重次が1575(天正3)年の長篠設楽ヶ原の戦いの陣中から妻にあてて書いた手紙とされる。息子の仙千代(後の本多成重)はのちに越前丸岡藩主(丸岡城主)となるが、城内には「一筆啓上碑」がある。重次墓所は死地の茨城県取手市のほかに福井県坂井市丸岡町の本光院にもある。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1529年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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本多重次 | F535 | 4 |
「本多作左衛門重次誕生地の碑」を偶然見つけたときには感激した。なぜなら、本多作左衛門は私の中学生時代からよく知った名前だったからである。下のプロフィールにも書いているように、私は浜松城内にある小・中学校(現在は一貫校)の卒業であるが、中学校は本多作左衛門の曲輪にあった。校歌にも『……作左山、伝えゆかしき……』とうたっている。作左衛門の生き様も人間味溢れ、好きな武将の一人である。