赤坂刑場跡
あかさかけいじょうあと(Akasaka Execution Ground Ruins)
【Z-AC051】探訪日:2023/4.27
愛知県豊川市赤坂町松本
【MAP】
〔駐車場所〕
中蘭塔霊園の奥左手にある慶安(1648~51年)の頃に創設された赤坂代官所の刑場跡で、数百人の罪人がここで処刑されたという。1869(明治2)年7月4日、3人の処刑を最後に翌年に廃止された。
石碑には、1836(天保7)年9月21日に勃発した三河農民大一揆の首導者が含まれている旨が記されている。数年来の凶作が続き、加茂郡下河内村の松平辰蔵,九久平仙吉ら80人が蔵米等の払い下げを要求して蜂起し、その規模は207ヶ村15,000人に拡大した。赤坂代官だった平岡熊太郎は岡崎藩,誉母藩に鎮圧を要請し、両藩の鉄砲隊により広瀬村の佐右エ門らの死傷者を出し農民を捕えたが、赤坂大日牢に収容できず仮牢屋を造り首謀者らを投獄した。なかには苛酷な拷問に耐えきれず牢内で首を括った者もおり、刑場に埋葬された。松平辰蔵,九久平仙吉,市野田村の円左衛門,川見村の金九エ門は江戸送りとなり、処刑前に江戸小伝馬牢内で獄死した。赤坂代官は、追放,手鎖,入墨,過料など12,366人を処罰し、三河最大の農民一揆は1837(天保8)年4月、勃発から1年9ヶ月後に終了した。
なお、同1837(天保8)年には陸奥,出羽,駿河,信濃,摂津の国でも一揆が発生し、大坂では大塩平八郎の乱が起きている。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 江戸時代:前期 | 江戸時代:中期 | 明治時代 |
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関連年号 | 1648~51年 | 1837年・1838年 | 1869年・1870年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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平岡熊太郎 | **** | 4 |