永観堂(禅林寺)
えいかんどう(ぜんりんじ)(Eikando [Zenrin-ji Temple])
【T-KT052】探訪日:2015/11.7
京都市左京区永観堂町48 <📲:075-761-0007>
【MAP】
〔駐車場所〕
853(仁寿3)年、空海の高弟である真紹僧都が歌人,文人であった故・藤原関雄の山荘を買い取り、都における真言宗の道場の建立を志し、ここを寺院とすることとした。863(貞観5)年、清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となった。当初真言宗の道場として出発した禅林寺は、中興の祖とされる7世住持の永観律師(源国経の子;1033~1111年)の時に念仏の寺へと変わる。永観は人々に念仏を勧め、また、境内にも悲田院(薬王寺),施療院を建立して、病人救済などの慈善事業も盛んに行った。
本尊は阿弥陀如来(みかえり阿弥陀)で顔を左(向かって右)に向けた特異な姿の像である。これには次のような伝承がある。永観が阿弥陀如来の周囲を行道していたところ、阿弥陀如来が須弥壇から下り、永観と一緒に行道を始めた。驚いた永観が歩みを止めると阿弥陀如来は振り返って一言、「永観遅し」と言ったという。阿弥陀如来像はそれ以来首の向きが元に戻らず、そのままの姿で安置されているのだという。
禅林寺12世の静遍僧都(1166~1224年)は、法然に帰依して念仏門に入り、禅林寺11世を法然に譲り、自らは12世を称した。その後、法然の高弟の証空(西山上人),浄音と続き、浄音の時代には西谷流の拠点の一つとして光明寺とともに栄えた。
応仁の乱の戦火によって大きな被害を受けるが、1497(明応6)年、後土御門天皇により再興の命が出て、復興に着手された。1607(慶長12)年には豊臣秀頼により、摂津国四天王寺の曼荼羅堂が移築されて阿弥陀堂とされている。
1876(明治9)年、禅林寺は浄土宗西山派の東本山となるが、1919(大正8)年には浄土宗西山派はそれぞれの考えの違いから三つに分裂し、禅林寺は浄土宗西山禅林寺派の総本山となっている。
紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれる。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 ・絹本著色山越阿弥陀図(鎌倉時代の仏画) ・金銅蓮華文磬 【国重文】 <絵 画> ・絹本著色釈迦如来像:十大弟子像 3幅 ・絹本著色薬師如来像 ・絹本著色来迎阿弥陀如来像 ・絹本金彩阿弥陀二十五菩薩来迎図(伝恵心僧都筆) ・絹本著色釈迦十六善神像 ・絹本著色十界図 2幅 ・絹本著色十六羅漢像 16幅 ・絹本著色当麻曼荼羅図(附:旧軸木) ・紙本著色仏涅槃図 ・紙本淡彩釈迦三尊像(狩野元信筆) ・紙本著色融通念仏縁起 2巻(伝土佐光信筆) ・紙本墨画波濤図 12幅(長谷川等伯筆) ・板着色二十五菩薩来迎図絵扉(善導大師厨子扉) 12枚。 ・紙本墨書当麻曼荼羅縁起 <彫 刻> ・木造阿弥陀如来立像(みかえり阿弥陀) <書跡典籍> ・當麻曼荼羅縁起 弘長二年証恵書写縁起 ・融通念仏勧進帳 文安四年三月日(金銀泥下絵料紙) |
関連時代 | 平安時代:前期 | 戦国時代 | 江戸時代:前期 |
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関連年号 | 853年・863年 | 1497年 | 1607年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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真紹僧都 | **** | 永観律師 | G*** | 静遍僧都 | **** |
証空(西山上人) | **** | 浄音 | **** | 豊臣秀頼 | ZZ01 |
永観堂境内案内図(永観堂ホームページより)