金戒光明寺

こんかいこうみょうじ(Konkaikomyo-ji Temple)

【T-KT050】探訪日:2015/10.4

【T-KT050】金戒光明寺 京都府京都市左京区黒谷町121 <📲:075-771-2204>

【MAP】

〔駐車場所〕

   1175(承安5)年春、浄土宗の開宗を決意した法然がこの地に草庵を結んだのが始まりとされる。比叡山の黒谷を下った法然は岡を歩くと、大きな石があり、そこに腰掛けた。すると、その石から紫の雲が立ち上り大空を覆い、西の空には金色の光が放たれた。そこで法然はうたた寝をすると夢の中で紫雲がたなびき、下半身がまるで仏のように金色に輝く善導が表れ、対面を果たしたという(二祖対面)。これにより、浄土宗開宗の意思を強固にした。
 この地は、もとは比叡山黒谷の所領で、法然の師である叡空入滅の時、黒谷の本房とここ岡崎白河の禅房(本房)を法然に与えた(比叡山の黒谷を元黒谷、岡崎の地を新黒谷と呼んだ)。法然は、のちに弟子の信空(白川上人)に黒谷の本房と白河の本房を与え、信空はこの地に住み、白河門徒の拠点となった。なお、岡崎にはもともと藤原顕時の別荘があり、叡空に帰依した顕時が叡空に寄進して白河の禅房が建てられた。それを法然が貰い受け、次いで顕時の孫である信空が継ぐ形となった。その後、岡崎の地は、黒谷と呼はれるようになる。通称を「くろだにさん」と呼ぶ。
 また、本寺は熊谷直実が法然のもとで出家した寺としても知られている。方丈前の松の木は、出家の際に直実が鎧を池の水で洗い、掛けたという伝説に因んで「鎧掛けの松」と呼ばれている(現在の木は2代目)。
 第5世恵顗の時に堂を整え、法然の見た縁起にちなみ紫雲山光明寺と号した。さらに第8世運空のとき、後光厳天皇に戒を授けて「金戒」の二字を賜り、金戒光明寺と呼ぶようになった。
 1612(慶長10)年、豊臣秀頼によって阿弥陀堂が再建されている。江戸時代初期に幕府によって知恩院と共に城郭風構造に改修された。そのために1862(文久2)年には、京都守護職となった会津藩主・松平容保の本陣が置かれ、藩兵1,000人が京都に常駐した。
 境内には、法然75歳時の肖像(坐像),本尊の阿弥陀如来坐像のほか、中山文殊,吉備観音などを安置する本堂の御影堂(大殿)、大方丈,大方丈唐門,三重塔(文殊塔)など多くの建物のほか、熊谷一族,春日局,平敦盛,山中幸盛,会津藩殉難者などの墓,供養塔がある。また、皇族,公家の茶の湯に使われた黒谷明星水という名水がある。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】

【国重文】三重塔(文殊塔)

     ・木造千手観音立像(吉備観音)

     ・絹本著色山越阿弥陀図(三曲屏風一隻)

     ・絹本著色地獄極楽図(二曲屏風一双)

関連時代 平安時代:後期 江戸時代:前期 江戸時代:後期
関連年号 1175年 1612年 1862年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
法然 **** 信空(白川上人) F459 藤原顕時 F459
熊谷直実 H185 恵顗 **** 運空 ****
豊臣秀頼 ZZ01 松平容保 MT59 春日局(斎藤 福) OC09
平 敦盛 H106 山中幸盛 G764

 

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高麗門 山門 御影堂 熊谷直実鎧掛けの松 阿弥陀堂 【Wikipediaより転載】大方丈 鐘楼