笠置寺

かさぎでら(Kasagi-dera Temple)

【T-KT014】探訪日:1990/12.1・2014/9.8

【T-KT014】笠置寺 京都府相楽郡笠置町笠置笠置山29 <📲:0743-95-2848>

【MAP】

〔駐車場所〕

   真言宗智山派の仏教寺院で標高289mの笠置山を境内とする。創建については諸説あって定かではないが、『笠置寺縁起』には、682(白鳳11)年、大海人皇子(のちの天武天皇)の創建とあり、弥勒磨崖仏造立が笠置寺の始まりであったことが示唆されている。また、初代別当(寺務を統括する僧)は良弁であり、その弟子・実忠は「お水取り」の創始者と伝承されている。実忠が龍穴の奥の弥勒菩薩の住む兜率天の内院で行われていた行法を人間界に伝えたのが東大寺のお水取りであるという。
 平安時代後期には末法思想の広がりとともに、未来仏である弥勒への信仰も高まり、円融天皇,藤原道長など皇族,貴族をはじめ当寺の弥勒仏へ参詣する者が多かった。
 1193(建久4)年、日本仏教における戒律の復興者として知られる興福寺出身の僧・貞慶が笠置寺に住している。南都の仏教の退廃を嘆き、笠置に隠棲し、1208(承元2)年、観音寺(海住山寺)に移るまでの十数年間を笠置で過ごしている。この時期に寺は最盛期を迎え、伽藍が整備された。1194(建久5)年には『大般若経』を安置する六角形の堂・般若台が建立され、1196(建久7)年には重源によって梵鐘や『宋版大般若経』が施入され、1198(建久9)年、木造の十三重塔が建立された。
 1331(元弘元)年8月、鎌倉幕府打倒の企てが発覚し、後醍醐天皇は御所を脱出して笠置山に篭り笠置城を築き挙兵した(元弘の乱)。笠置山は同年9月に落城、後醍醐は逃亡するが捕えられ、隠岐国へ流罪になった。この戦乱時の兵火で笠置寺は炎上し、弥勒磨崖仏も火を浴びて石の表面が剥離してしまった。笠置山には弥勒磨崖仏の他に薬師石,文殊石,虚空蔵石,両界曼荼羅石などがあり、かつてはそれぞれに線刻の仏像や曼荼羅図が刻まれていたが、兵火でほとんどが失われ、わずかに虚空蔵菩薩像の刻まれた石のみが当初の姿をとどめている。弥勒磨崖仏は高さ約16m,幅約15mの岩に刻まれたが、現状では光背の窪みが確認できる程度で像の姿は全く失われている。寺は1339(暦応2)年に再興されるが、1355(文和4)年再び焼失。その後も再興と焼失を繰り返すが、以後、最盛期の規模が復活することはなかった。
 慶安年間(1648~52年)、伊勢国津藩主の藤堂高次は笠置寺本堂を再興したが、近世末には衰退して明治時代初期には無住となっている。現在の寺は1876(明治9)年に再興されたものである。
 山門をくぐると本坊,毘沙門堂(2004年建立),収蔵庫,鐘楼などが建ち、その奥に一周約800mの修行場がある。修行場には「胎内くぐり」「蟻の戸渡り」「ゆるぎ石」などと名付けられた岩が点在しており、途中に弥勒磨崖仏(現在は光背を残すのみ),弥勒磨崖仏の礼堂である正月堂,石造十三重塔,虚空蔵菩薩磨崖仏,後醍醐天皇行在所跡などがある。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】

【国重文】石造十三重塔(鎌倉時代末~室町時代の建立)

     ・梵鐘(1196年の作

     ・地蔵講式,弥勒講式(貞慶筆)

関連時代 飛鳥時代 鎌倉時代 江戸時代:前期
関連年号 682年 1193年・1194年・1196年・1198年・1331年 1648~52年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
大海人皇子 K307 良弁 **** 実忠 ****
貞慶 **** 重源 **** 後醍醐天皇 K601

 

【T-KT014】笠置寺
  

 

【T-KT014】笠置寺

 

笠置寺境内見取り図(現地パンフレットより)

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山門 毘沙門堂 椿本護王宮 薬師石 弥勒磨崖仏(本尊):光背が残るのみ 【転載】 正月堂 石造十三重塔 後方が笠置石 千手窟 虚空蔵菩薩磨崖仏 胎内くぐり 太鼓石 ゆらぎ石 【転載】蟻の戸渡り 【転載】 後醍醐天皇行在所跡 笠置城二ノ丸跡 宝蔵坊跡 大師堂