建仁寺
けんにんじ(Kennin-ji Temple)
【T-KT045】探訪日:2015/10/4
京都府京都市東山区大和大路四条下る四丁目小松町584 <📲:075-561-0190>
【MAP】
〔駐車場所〕
1202(建仁2)年、鎌倉幕府2代将軍の源頼家を開基、日本に臨済宗を正式に伝えたとされる栄西を開山として建立された。かつて京都五山の第3位であった。
14歳で比叡山で得度した栄西は南宋に2回渡航し、1191(建久2)年、印可(師匠の法を嗣いだという証明)を得て帰国した。しかし、当時の京都では比叡山延暦寺の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難であったため、栄西は初め九州博多に聖福寺を建て、のち鎌倉に移って北条政子の援助で1200(正治2)年に建立された寿福寺の開山となった。その2年後に源頼家の援助のもと京都における臨済宗の拠点として建仁寺を建立された。伽藍は宋の百丈山に擬して造営され、創建当時は真言院・止観院を構え、天台宗,真言宗,禅宗の3宗並立であった。
鎌倉時代には三度の火災に遭い衰微したが、1258(正嘉元)年に東福寺開山の円爾(聖一国師)が当山に入寺し仏殿などを復興する。翌年には宋僧の蘭渓道隆が11世住職として入寺し、臨済禅道場となりこの頃から純粋禅の寺院となる。1265(文永2)年には臨済禅寺となり、寺名を建寧寺に改名した(1342年、寺名を建仁寺に戻している)。
その後も佐々木道誉による妙法院焼き討ちの際に輪蔵,開山堂,塔頭瑞法庵などが類焼し、応仁の乱でも炎上するなど創建当時の建物は残っていない。天正年間(1573~92年)に安国寺恵瓊が復興に努め、江戸時代にも修理が継続して行われた。
寺の南側正面には勅使門(重文)がある。四脚門で平教盛もしくは平重盛の館門を応仁の乱後に移築したものと伝わるが定かではない。様式的には鎌倉時代末頃の建築である。柱や扉に矢が刺さった痕跡があり、「矢の根門」「矢立門」とも呼ばれる。「望闕楼」の別名をもつ三門は静岡県浜松市の安寧寺から1923(大正12)年に移築したもので、江戸時代末期の建築である。法堂は本堂にあたり1765(明和2)年の再建で方丈と渡り廊下で繋がっている。また、方丈(重文)は1487(長享元)年の建立で、安国寺恵瓊が1599(慶長4)年に安芸国の安国寺より建仁寺に移築したもので、東側に設けられた大玄関を介して本坊と連結する。1934(昭和9)年の室戸台風で倒壊し、1940(昭和15)年に創建当初の杮葺で復旧された。
塔頭はもともと34院あったが、明治初めの廃仏毀釈で残されたのは正伝永源院,常光院,清住院,久昌院など14院である。境外塔頭には六道珍皇寺もある。
【史跡規模】 |
【指 定】 |
関連時代 | 鎌倉時代 | 室町時代 | 安土桃山時代 |
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関連年号 | 1202年・1258年・1259年・1265年 | 1487年 | 1599年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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源 頼家 | G202 | 栄西 | **** | 円爾(聖一国師) | **** |
蘭渓道隆 | **** | 佐々木道誉 | G7** | 安国寺恵瓊 | **** |
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▲勅使門
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▲勅使門
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▲三門(望闕楼)
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▲三門
▲法堂
▲法堂
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▲浴室
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▲開山堂楼門
▲本坊
▲この先が方丈
▲【Wikipediaより転載】方丈と大玄関
▲北門
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▲禅居庵
▲境外塔頭の六道珍皇寺