武市瑞山殉節の地
たけちずいざん じゅんせつのち(Deathplace of Zuizan Takechi)
【Z-KC003】 探訪日:2019/7/21
高知県高知市帯屋町2丁目5−18
【MAP】
〔駐車場所〕
1865(慶応元)年7月3日、武市瑞山が切腹した高知城下帯屋町の南会所(藩の政庁)大広庭付近に、碑が建てられている。
武市瑞山は通称の武市半平太で呼ばれることも多い。土佐藩郷士・武市正恒(白札格・51石)と大井氏の娘の間に生まれ、妻は土佐藩郷士島村源次郎の長女・富子。板垣退助とは親戚、坂本龍馬とは遠縁にあたる。攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成し、山内容堂の信任厚い参政・吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功し、京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、1863(文久3)年の八月十八日の政変(交渉による通商条約破棄を支持する勢力が、過激派主導の攘夷戦争を企てる勢力を朝廷から排除したクーデター)により政局が急転し、前藩主の山内容堂によって多くの同志とともに投獄される。
獄中では、瑞山に心酔する獄吏の便宜もあり、牢にありながらも同志との秘密通信や自画像を書くための紙,筆,墨も取り寄せることができたという。瑞山らはまだ捕らえられていない同志やその他の協力者への連累を食い止めるべく吉田東洋暗殺事件を初めとした被疑事実を否認し続け、長い獄中闘争を耐えた。だが、1864(元治元)年4月に瑞山の下で動き京都に潜んでいた岡田以蔵が捕縛され土佐に送還されると、以蔵は監察府の拷問に耐えかねて、京や大坂での天誅事件への関与やその実行者の名を次々と自白し、新たな逮捕者が相次ぐこととなる。7月には板垣退助や吉田東洋門下の後藤象二郎らが土佐勤王党の取り調べに当たるようになった(退助は瑞山に同情的であったため江戸での騎兵術修行を申し付けられた)。監察府の陣容一新に、これまで以上の厳しい追及を覚悟した瑞山は三枚の獄中自画像を揮毫し、それぞれ妻と姉に送っている。
厳しい取り調べは続いたが、以蔵ら4名の自白はあったものの、瑞山らが一連の容疑を否認し続けたため、監察府は瑞山や他の勤王党志士の罪状を明確に立証するまでには至らなかった。そして1865(慶応元)年7月3日、業を煮やした容堂の御見付(証拠によらない一方的罪状認定)により「主君に対する不敬行為」という罪目で、瑞山は切腹を命じられる。岡田以蔵,久松喜代馬,村田忠三郎,岡本次郎の自白組4名は斬首、その他は9名が永牢、2名が未決、1名が御預けと決まった。刑は即日執行され、以蔵ら4名は獄舎で斬首。瑞山は、同日20時頃、南会所大広庭にて、未だ誰も為しえなかったという三文字割腹の法を用いて、腹を三度かっさばいた後、2名の介錯人に心臓を突かせて絶命した。享年37。これにより土佐勤王党は壊滅した。
明治維新後、板垣退助ら有志の尽力により、瑞山の名誉は回復されている。また、山内容堂も瑞山を切腹させてしまったことで土佐藩内に薩長に対抗できる人物を欠くことになり新政府の実権を奪われたと考え、これを何度も悔やんだともいう。