板倉勝重生誕の地
いたくらかつしげ せいたんのち (Birthplace of Katsushige Itakura)
【Z-AC023】探訪日:2016/5/1
愛知県岡崎市小美町深萩
【MAP】
〔駐車場所〕
1545(天文14)年、この地に生まれた。現在、遺構は残っておらず、民家の庭先に「板倉勝重公生誕地」の石碑が建つのみである。
幼くして出家し香誉宗哲と称して中島村永安寺に住んでいたが、1561(永禄4)年に父の板倉好重が善明提の戦いで戦死し、跡を継いだ3男定重も1581(天正9)年の高天神城攻めで討死したため、徳川家康の命で還俗して武士となり家督を継いだ。
その後は家康に仕え、1586(天正14)年に駿府町奉行となり、1590(天正18)年に家康が関東に移されると江戸町奉行,小田原奉行,関東代官を兼任する。関ヶ原の戦い後の1601(慶長6)年、京都町奉行(後の京都所司代)に任命され、京都の治安維持と朝廷の掌握、さらに大坂城の豊臣家の監視に当たった。1609(慶長14)年には近江国,山城国に領地を加増され1万6600石余の大名に列している。
京都所司代としての彼は、何事にも公平な性格で難しい裁判を双方納得する形で決着をつけたり、僧のときに学んだ先例故実を生かして朝廷などの交渉をこなしている。1620(元和6)年に長男・重宗に京都所司代の職を譲るが、勝重,重宗の裁定や逸話は『板倉政要』という判例集となって後世に伝わった。1624(寛永元)年に死去、享年79。