加藤嘉明生誕の地
かとうよしあきら せいたんのち (Birthplace of Yoshiakira Kato)
【Z-AC039】探訪日:2021/11/7
愛知県西尾市上永良町宮東13
【MAP】
〔駐車場所〕
1563(永禄6)年、三河国幡豆郡永良郷の上永良城にて松平家康の家臣であった加藤教明(岸三之丞教明)の長男として生まれた。同年の三河一向一揆で、父が一揆勢に組して家康に背き、敗れて父子とも流浪の身となった。流転の後に近江国に至り、嘉明は馬の行商を手伝っていたが、幼少ながら優れた資質があるということで加藤景泰によって羽柴秀吉に推挙され、景泰の猶子となったのを機に加藤姓を名乗るようになったともいう。
賤ヶ岳の戦いでは、福島正則,加藤清正,脇坂安治らと共に活躍し、戦功をあげて「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられた。
秀吉亡き後は武断派として石田三成ら文治派と対立し、関ヶ原の戦いの功績により伊予国20万石の大名となる(嘉明が地名を松山と改名)。1631(寛永8)年、病を発し江戸の桜田第で死去し遺骨は東本願寺大谷祖廟に葬られた。享年69。武略はもとより政治面でも高く評価され、家臣に対するしつけや寛大さも逸話が残る。