普門寺旧境内遺跡
ふもんじ きゅうけいだいいせき (Old Precincts Ruins of Fumon-ji Temple)
【T-AC051】探訪日:2018/3/26
愛知県豊橋市雲谷町ナベ山下
【MAP】
〔駐車場所〕
727(神亀4)年、行基によって開山されたと伝わる。現在の普門寺の寺観が整えられたのは戦国時代から江戸時代前期であるが、当初は後方の山々全体が寺域であった。
1534(天文3)年成立の『普門寺縁起』には、行基がこの山で寺院草創の志を抱き修行をしていたところ、観音が姿を現して「山の形にちなんで山号は『船形山』、観音様にちなんで寺号は『普門寺』と名付けよ」とお告げがあったと記されている。行基はその観音の姿を自ら彫り、お告げの内容を聖武天皇に報告をしたところ、堂塔建立を命じられて普門寺が開創されることになった。普門寺は天智天皇彫刻の五大明王を本尊とする「東谷」、観世音菩薩を本尊とする「西谷」からなり、聖武天皇は尊勝峯(神石山)と雨応峯(雨応山)から見渡せる範囲を寺領とした、という。
古代の普門寺は3000余りの坊舎を抱えて繁栄した。1156(久寿3)年には僧・勝意によって経塚が造営され、1160(平治2)年には高松院(二条天皇の后)より下賜された梵鐘が奉納された。嘉応年中(1169年~71年)に比叡山に攻められ焼失したが、養和年間(1181~82年)に源頼朝の叔父の化積上人によって中興された。鎌倉時代には山麓の雲谷,岩崎を中心に、一部は遠江に及ぶ広大な寺領を有いた。源頼朝が平家追討の祈祷をして、頼朝と等身大の不動明王像を造ったともいわれる。
船形山山腹には200ヶ所以上の人工の平坦地があり、特に、元々堂址,元堂址はともに平安時代後期に大がかりな整備が行われ、現在も本堂跡の基壇が残されている。それぞれかつての普門寺を構成した船形寺(西谷:本尊聖観音菩薩)と梧桐岡院(東谷:本尊五大明王)に相当すると考えられている。元々堂址の本堂跡からは10世紀半ばの遺物が出土しており、本尊聖観音菩薩像が11世紀、菩薩形立像が10,11世紀の彫刻であることも判明しており、普門寺の成立が古代に遡ることは確実視されている。
1533(天文2)年には兵火のため全山がことごとく焼失したが、江戸時代前期にかけて復興が進められ、17世紀後半には仁王門,本堂など大規模な造営も行われて、今日につながる基本的な寺観が整えられた。